×××× IN MY HEAD

筒井です。夢はお笑い芸人のままです。

音楽を自己PRに使う

 聴いている音楽でどんな人かわかるというのは大体嘘であって、そんなもんで僕の心の中までわかってたまるか。という気持ちにもなる。

 

 

 

 恐らくこのブログはTwitter経由でなければ見れないので多分問題無いのだけれど、自分の部屋でオシャレな邦楽を流してそれをただ動画に収めて投稿している昔の友達がいる。僕は最近なぜそれを投稿するのか考えることが好きになっていた。整然とされた無機質な部屋にプロジェクターが設置され、バンドのPVやよくわからない海外のアニメみたいなものがひたすら流れている。そして勿論、音楽がそこに流れている。動画はそれらを収め、画角?や構図が変わることはない。ただひたすら、流れている。分割された中堅シティポップバンドの少し古い楽曲が突如して僕のInstagramのストーリーで流れてくるのだ。正直、数年前に聴き飽きたしもう今更目新しさもない。

 

 

 これがファッション的音楽拝聴のススメなのか。と最近見かける度に思うようになった。音楽は確かにファッションと共にあるだろうし、それを好きだということが自分のステータスを誇示することによく使われ、もはや好きなアーティストは別の意味を含む言語のようになっていて、どんな人かわかるというわけではなく、自分はこんな人ですというPR材料に限りなく近い。そして僕はそれを見せつけられると、どうも可笑しくなってしまう。悪い意味の可笑しいであることは言うまでもない。オカシイと書くべきだろうか。

 

 

 なぜそれが可笑しいのか。そもそも音楽はもはや数年前に騒がれたようなサブカルチャーではない。誰もが電車ではイヤホンを着用し、サブスクを使い倒し、フェスに数万人集めるような「ロックバンド」という大きな柵が何を今更「サブ」なのか。もはやそれはカルチャーとして大衆に染み込み、広告代理店によって消費され、僕らの生活に淡々と流れてくる。無論、バンドによってはアングラで生きているようなものもあるが、今回の話で言う「ロックバンド」はフェスに出ているようなバンドを指すとする。そして僕がインスタで観るバンドはまさに先のそれに該当する。数万人のフォロワーを持つような彼らがファッションとして消費されているようなことに、広告代理店が重なった。

 

 

 僕は別にアンチ代理店でもないけれど、彼らはブームを作る役割を担っている。某ラジオ局で働いていた人が社内にいるのだけれど、数年前は某チェコ○○のゴリ押しが凄く、それだけ必死に世の中の見えないところからのプッシュを感じたらしい。それによって売れるなんて当然であって、彼らはある程度第一線にも出てきた。そんな感じで消費されたバンドの生命はなかなか長くは持たない。それだけのスタミナと独創性、見えざる力みたいなものが必要になってきて使い古されていく。ドラマやCMがバンドを使うのは、その世界観や価値を視聴者(ここでは大衆)に伝えるわけであって、それが個人に落とし込まれると可笑しくなるのだ。

 

 つまり、なんのストーリーもバックボーンも無いような男が自分を音楽の力によって魅せ方をキメようとしている姿が滑稽なのだ。果たして、聴いていてカッコイイ音楽とはなんだろうか。カッコをつけるのは男の子として当然だけれど、それに音楽を使っているあたりが面白くなってしまう。果たして僕が世の中の女性にカッコよく思われる為には、天井に何を映しながら、何を流せばいいだろうか。コンクリの壁を映しながら、フジファブリックやplentyじゃきっとイケてるファッションにはならない。もっと僕の好みから目を背けた厚手の魅せ方ができるバンドが必要なんだろう。例えば僕がいきなりSuchmosを流しながら湯船に顔を隠して浸かるようなPRであれば、きっと「エモい!」なんて刺さるんだろう。いや、ポストマローンとかにしておこうか。吐きそう。

 

 

 カッコつけるのは二人でいる時くらいにして、数百人に向けて見せるものじゃないな。そんな薄手のファッションミュージックじゃ、安さをアピールしてるのと変わらない。注意しとけよ、筒井。と言い聞かせた。

 

さて、オーサムでも聴いて帰ろうか。