×××× IN MY HEAD

筒井です。夢はお笑い芸人のままです。

来る夏

 

鬱陶しい季節

 

 

査定が終わった。僕の売上成績は他メンバーと比較して一桁ズバ抜けていた。たかが100人程度の社員のこの数字の羅列が、僕の居場所なんだなと思いながら目標の上方修正をした。数字が働きを肯定してくれる。まだ間違ってないと思わせてくれる。自分の余裕が出ると、後輩指導にようやく着手できる。後輩も上司を選べないように、巡り合ったのなら責任を持つしかない。いつ矛先が向くかもわからない、ブチ抜かれる日を期待して、ありったけの時間を注ぐ。数字を共有する。それでいい。いいよね。

 

 

 

PINSが活動休止して、最後のライブアルバムを出した。密かに応援していた。思うように売れなかったのだろうか。ここにもきっと数字が絡んでいる。思えば生まれてから、偏差値やテストの点、いつも数字に僕たちは追われている。数字に肯定されたい。数字に証明されたい。フォロワー数、再生数、登録者、動員数、手取り、数字は事実だ。誰も信用できないなんて話を聞く。元から信じるなんて目に見えない行為は事実も実態もない。100%の信用も30%の信用もない。あるとすれば「1」か「'0」の二進法的な事実だ。自信がない、誰かに自信をつけてほしいなんて僕はクソ甘ったれだと思っていて、結局それらも自分で自分を数字で評価してあげるしかない。それが少しずつ、本当に少しずつ自己肯定感を高めていくキッカケになるのだから。

 

 

 

 

入社した新卒から「昔から売れてたんですか?」なんてことを聞かれた。僕もギターが上手かったり、サッカーの上手い人に昔聞いたことがある。「昔からそんなできてたの?」と。総じて皆「そんなことないよ。」という。謙遜も入りながら100%そう言う。と言うことは、今身近に何かをできている人も、憧れの人も、大体は「もともと一緒」だったのだ。自分と同じラインだったに違いない。こういう当たり前のことが大人になるとわからなくなってくる。「勉強したからできるんだ。」と子供の頃に他人を見るときに納得できていたことが捻くれて「昔からできる人だったのでは?」と直視することを避けるようになる。凄くわかる。でもやっぱりそんなことはない、途方もない挫折と死線を抜けた先に、僅かな結果という期待があるだけで、それを積み上げられるか、できないかの差なのかもしれない。ずっと僕はできなかった。センスや環境のせいにしてきたが、ようやくそれは「認められない弱さ」だと気づいた。なんだか「昔からできたの?」ということが失礼な気がして、今まで聞いてきた先輩や友達に少しだけ後ろめたい気持ちになった。今度からふと思った際には「きっと、めちゃくちゃ努力したんすね!」と、過去を肯定しようと思う。

 

 

 

 

生きています、今のところ。

 

記憶に

もういいかな。

 

 

決してネガティブな話でもなく、もう本当に人生のピークが今くらいなのかな?と思うことが増えた。勿論、今更28歳にして死ぬことを考えているような暗い話ではない。精神的にも大人になった。ただ一方、苦しむことなく「ふと」消え去れるなら、この今のまま終わって欲しいという感覚は日を増して肥大していくばかりで、大好きなバンドが解散を決めるかのように、何かがぷつりと切れてしまう日はあってもおかしくない状況だということを、戒めも含めてここに記す。誰の為に生きるなんてこともなく、最終的には自分のために働き、遊び、生活をするだけなのだ。何をどこで終わらす権利というものも、あってよいのになと思うこの頃である。ね、そうでしょ。

 

 

 

 

 

 

 

先生の教え

仕事は終わらない。6/2

 

 

 

このご時世、働く場所と仕事そのものがあるのはとても有り難いことではあるが、誰しも「限度」ってものがある。たまに超過した際に、社会人としての器量が試されるわけだが、もはや「人間」としての心の広さや許容範囲を測られているような、そんな気分になる。日に日に溜まる毒物をどのように解毒していくか、希釈させるかを常に模索している。必死で「薄めてくれ。」と何かに縋っている。そうだよね、みんなそうあってくれ。

 

 

 

5年後も同じような働き方ができるか問われると、「いける」と答える自信がない。体は老いる。飲んだ翌日に酒が残るようになったが、もはや分解しきれないのだろう。一回何かが切れたらもうやり直せないのは知っている。飲み込むことは上手くなるが、消化が間に合わない。俺にもTVショッピングで販売されるような高機能ミキサーが欲しい。良くも悪くも砕き切って、何を食べてるかもわからないような、勢いで飲み込めるような代物が。今はもう刃がボロボロなのだ。必死で研磨しながら、細く薄くなったソレを今日も回す。仕事だから。

 

 

 

 

 

 

 

 

某教職員 6/3 9:41

 

 

 

10年くらい前に仲良くなった教員志望のヤツがいて、たまたま僕と同じ大学に行く予定だったけれど、結局そいつは地元の国立大に通った。中途半端な俺なんかからすれば、むしろそれでよかったんじゃないか?国立大なんて僕なんかより偉く立派なもんだとも思うけれど、本人が僕の大学(某国語教員排出大学)に来たがっていたのは事実だった。

 

それから数年、特に会うことも無いし、連絡も取らなくなった。僕は結局教員なんてすぐ諦めて(知能的に)、中国行きを目指した。ソイツは連絡もしなくなった。

 

 

ついこの間数年ぶりに「木下理樹のいいねでお前が出きたぞw」という連絡を受けた。話を聞くととにかく教員は大変らしい。中学の国語教師をやっているようだけれど、いよいよ休職してしまったと。もう2年も休職していて、戻ることが怖いと。口にしていなかったけれど、きっと悔いていた。なんとなく。誰かに謝りたいんだろうなとも思った。気持ちはわかる。

 

 

 

そして時が経って昨日、誕生日でもないのに連絡が来た。

 

「昨日復帰して、二日間乗り切った。」と。

 

 

偉業だ。2年の間に生徒はもう卒業していたりもするだろうし、先生も変わる。何ならコロナによって生活様式が変わった。記憶と経験は自分だけが2年前。凄まじい。同世代が這い上がっていくのを見ると、本当に皆自分だけと戦っているんだなと思う。敵はどんどんいなくなる、甘えや慢心、飽き、そんなものと毎日戦いながら、鞭打ってやり切るんだろうなと。柄にも無いけれど、久々にポジティブになれた。

 

 

 

 

相変わらず10年前同様、馬鹿にされているが、そんな世界線があったらを考えると楽しい。28歳に対する中二クラブって言葉のパンチ力よ。喜んでる俺も俺で大概なんだけれど。

 

 

f:id:shoegaze221:20220603093958j:image

 

 

 

お互いノーガード、プライドだけ携えて頑張ろう。

 

 

Twitter

 

フォロー。

 

 

 

生粋のTwitterファンであり、何かを書くということがストレス発散と頭の整理になる僕にとってInstagramには適合できず、Twitterとブログの居心地の良さに甘んじている。SNS業界の端くれとはいえ、苦手だから上手く使えないのは仕方ない。

 

 

昔はもっと気軽にフォローをしていた。「あ!この人面白そう!」「いい音楽知ってそう。」そんな感じ。なんなら地下室TIMESで記事書いてちょっと天狗になってたあの頃、消し去りたい。

 

それが今じゃオススメに出てきた人を見ても「うーん…なんか申し訳ないな…」

 

 

 

これはまさに、リアルの出会いのハードルと比例している。大人になればなるほど「友達」のハードルが上がる。今更どんな人に出会っても、10年以上遊ぶ高校や大学の友達を超えることは容易ではないように、今いるメンバーで十分になっていく。

 

 

TikTokInstagramが出てもなかなか取り掛からず、Twitterという媒体に依存をし続け、更にTwitterの使い方までも排他的になり、狭いコミュニティで息をするなんて、典型的な「昔は良かった」おじさんの切符を持っているじゃないか。あの頃はもっと活発だった、あの頃はギスギスしていなかった、使いやすかった。

 

 

違う、きっと僕はもう置いていかれたのだ。アップデートが終了したサービスのように、ただただ代わり映えのない日常(現実)と日常(SNS)に満足している。最近フォローをされると無性に喜んでいる。これもかなりキツイおじさんだ。近づかないからこそ、来る者に喜んでしまうおじさん。

 

 

 

まだ28歳、もう29歳。

 

 

強引にアップデートを続けるおじさんこそ、面白い30代が待っていると思う。頑張れ筒井。ver28.6が来月やってくる。

 

 

 

消えた劣等感.2

 

俺みたいなのが。

 

 

 

 

少し前の日記からだいぶ時間が経ってしまった。ちょっと目を離しただけで24時間なんてあっという間に過ぎていく。その繰り返し。惜しいと思う暇もなく、一時の快楽を求めるかの如く、まさに言葉通り刹那的に毎日が終わる。

 

劣等感が消えたと記事のタイトルにしたが、実は消えていなかったのかもしれないと今日思った。矛盾は僕によくある。矛盾こそ人らしさであり、矛盾こそが僕であると思い込んでもいる。

 

何が僕をここまで突き動かすのか。そもそも動いているのか。よく自問自答する。間違ってないと思いたいから。そこで見つかるのは結局「俺みたいな奴が。」という劣等感を糧にしたブーストだ。

 

 

決して日向の人生を歩んできたわけでもなく、日向でも生きていけるような人に恵まれた人生だった。できれば休日も家にいたいし、大学時代はサークルにも馴染めず一瞬で諦めた。無理矢理陽キャラと付き合って偽っていたら、学校に行くのが嫌になった時期もある。結局、自己評価が低いが、低いなりの戦い方を覚えたに近い。

 

 

今日も数千万規模の契約が取れた。弊社ではまだまだ稀有なパターンだ。それを俺は「俺みたいなのが。」と思う。低いからこそやらなきゃいけない。プライドと実力の狭間で圧死しそうになりながら、負けないために抗うには「俺みたいなのが。」と思いながら結果を出すしかない。その先に驕りは無い。なぜなら今日なんて一瞬だから。また明日も「俺みたいなのが。」と思いながら、沸々と働く。劣等感は消えていない、劣等感を消すために働いているのだ。焼き殺しながら、燃やしながら、その熱によって生かされていた。

 

 

まあきっと、数ヶ月後には違うことを言っている。人間だからね。

 

 

働くモチベーションが何かとよく聞かれる。なんでそんな働いてるの。と嘲笑混じりに聞かれることもある。

 

もう仕事は、自我を保つためにある。誰も肯定してくれない。誰の肯定も素直に受け入れられない。だからやって確かめるしか無い。そんな男の末路だ。

 

 

消えた劣等感.1

久々にPCからブログを書く。某外資系企業に向けて提案資料を作らなければならないのに、何故かブログを開いてしまう。現代では「筆が進む」とは言わないのだろうか。「タイピングが進む。」

 

 

何歳になっても、自分に自信が無いと悩んでいる人にたくさん出会う。世の中が自信に溢れた人だらけになれば、僕もまたメッキが剥がれてしまうのだろうけれど、いつの間にか僕の虚勢は確固たる自信になった。劣等感みたいなものも無くなった。

 

どうしてこうなれたのだろうと、ふと思うタイミングがある。別に何かを成し遂げた訳ではなく、10年前から比べて特別秀でた能力が身についたわけでもない。ただ、誰かと比較することもなく、毎日それなりに幸せだろうというポジティブ脳に切り替わった。8年前に沈んだブログを書いていた僕は、今これを見て何を思うのだろうか。

 

要因を探そう。

 

そういえば元々、何かで1番になるような人生ではなかった。何度もここで書いた通り、僕はこの先も小学生時代をフルで虐められ続けた劣等感と憎悪のようなものに塗れているし、勉強も学年120人中で36番くらいの絶妙な順位だった。50m走も7.2秒くらいで、僕よりも速い人はたくさんいた。高校に入っても、大学に入っても、1番ではなく6番くらいの人生だった。オシャレにもなりきれず、楽器も上手くなく、田舎の劣等感を抱きながら、毎日渋谷の大学に通っていた。

 

長くなりそうだから、続きはまた次に。

懐古厨

 

おじさんになった。

 

 

思えば、来年にはもう僕も30歳らしい。30歳で「僕」とか言っているのにもいよいよ本物の痛さが生じ始めていて「私」と呼ぶべきであろう。そして来年の12月なんて遥か先のようで、例年の如くあっという間だ。

 

 

僕(私)ら90〜95年世代はきっと青春時代にITの変革期を迎え、いつの間にかゲームボーイはカラーになり、ゲームのコントローラーは無線になり、パカパカするケータイはスライドへ、MDプレイヤーはMP3プレイヤーになった。そして淘汰された。常に「新しいモノ」を持つことが一つのステータスであったし、ケータイをケースに入れる時代が来るなんて予想もしていなかった。あの頃はケースなんかじゃなく、機種を選んでいた。1年毎に機能がアップデートされて、古いモノは遅れているような、時代に追いついていかなきゃいけない勢いが凄かった。そんな印象がある。そして30歳を目前にした僕らは今「懐かしい」に打たれ弱くなった。

 

目まぐるしく変わったファッションや音楽のトレンド、mp3プレイヤーだけではない。ちょっとしたキャラクターやエンタメも含めて、僕らは貪るように消費をしてきた。そのモノの良さも分からずに。その反動がそろそろ来るのではないか?という気がしている。つまみ食いをしてきた結果、何も物足りない空腹モンスターが生まれたのだ。

 

きっとこれから、僕ら世代を狙った数多くの映画やドラマ、ガジェットなんかも出てくる。なんのアレもないけれど、そんな気がする。今更になってiPod nanoが復刻すれば僕は喜んで買ってしまうかもしれないし、当時のバンドメンバーへの誕プレにしてしまうかもしれない。要不要のアイテムではなく、ある種改めて当時を懐かしむアイテム、消えかけた個性を象徴する品物としての物質を感じるために。そしてそんな投稿を見て、まさにそうだなと思った。

 

古いからダサいなんて考えはこの進化しすぎた世の中で、どんどん無くなってくるのかもしれない。古くてもいい、自分はこれが好き。なんて生き方はなんだか悪い意味でも「今っぽい」気がする。戻れるのなら、2009年頃に戻りたい。

 

そしてiPod classicを、また使いたい。