×××× IN MY HEAD

筒井です。夢はお笑い芸人のままです。

お題ブログpart.1

 

 

おはようございます、筒井です。

 

 

 

 

『はじめに』

 

 

  お題箱とコメントで合計20件強集まりました。ありがとうございます。つまり僕はこれで自分の脳を働かすことなく20日分のネタを手に入れたこととなり、一人一件だとすると20人分のネタも手に入れたということになった。とても面白いです。一日1件なんてペースだと当分かかってしまうので、たまには二食、三食ずつくらい平らげていこうと思います。

 

 

 

   ありがとうございます。

この方式は追い追い三人で進めていくことにします。詳細はまたご連絡しますが、きっと、面白いブログになると思います。その時は別の場所で、読んでいただきたいです。今、三人でブログのコンセプトを考えてる最中です。

 

 

 

 

 

さて、始めます。

 

 

 

 

『理解者との邂逅』

 

 

 

 

   一番初めに届いたお題がこちらでした。「カイコウ」なんて小説以外で初めて目にしたよ。念のため、引用しておきます。奇跡的に出会うという意味で解釈してましたが、なんだかまあそんな感じらしいです。

 

 

 

かい‐こう【×邂×逅】
[名](スル)思いがけなく出あうこと。偶然の出あい。めぐりあい。「旧友と邂逅する」

 

 

  お題を出された方は『理解者との邂逅』と書いているということは、理解者とはなかなか会えないことを知っている前提なんだろう。それに、理解者なんてものは生きてても一人や二人会えればいいことをどこかで悟ったんだろうか。

 

 

 

 

 

 

   僕は未だにそんな人に会えた気がしない。

 

 

 

 

 

 

   そもそも理解者っていう言葉の曖昧さが、あんまり探す気にもさせない。無論、こんなに尖った結果の先に僕のことを全て理解して、見抜くような人が突然現れても素直に受け入れる気がしない。ヘソ曲げて「俺をわかってねえなあ…」とかカッコつけて言ってしまいそうである。内心、生き様がバレたらバクバクである。わかってほしいことをわかってもらえず、本質だけを突かれた時の情けなさや恥ずかしさは、死ぬほど味わってきました。

 

 

 

 

 

   理解されることがそんなに嬉しいかな。自分が捻くれながらも、そこそこ頑張ってることを知ってくれている人は僕の周りにもいて、たまに背中を押したり、背中を蹴飛ばされたりしながら、何とか前向きになれている日が僕はたまにあったりする。自分の生活に引け目が無いのであれば「理解者」なんて大袈裟な言葉は使える人かわからないけれど「物分かりのいいやつ」はきっとすぐ現れてくれる。というかよくよく見渡せば、もうそこにいたりする。

 

 

 

 

   お題をくれた人はきっと「全部を理解してほしい!」なんて意味じゃないですと僕に訴えそうだし、何歳なのかも知らないけれど、例えば25歳として、全く理解してくれない人たちに囲まれているのであれば、改めて自分の生き方を考える必要がある。でも多分、いやきっとそんなことはないでしょう、そんな誰にも理解されない人には会ったことがないもん。きっとあれだよ、それは本当に何を理解してほしいのか、実は理解者なんてものをそんなに重たく考えてなく、都合よく自分とウマの合う人を探しているんだ。

 

 

 

と、わかりきったようなことを書くとまた「わかってくれない。」と言われそうな上に「本質」を突けば嫌われるのだが、実際僕もそんな感じだ。きっと僕もこの人も理解者なんていないとわかっていながら、いてたまるか、自分なんて誰もわかってくれない。と思いたい気持ちがありつつも、どこかで探してる拗らせた欲張りなのだ。

 

 

 

 

 

「邂逅」なんて気の利いた言葉があるだけで十分じゃないでしょうか。たまたま巡り合うなんてロマンチックじゃないか。何気なくいつも通り仕事や学校を頑張って、たまたま「わかってんなあ!」って奴と出会える日を淡く期待しよう。僕はそんな風に過ごしてる気がしました。理解されるには、知るところからとよく言います。まず、誰かの「わかってんなあ!」になるところをお互い目指しましょう。理解者だなんて言葉は重たすぎちゃうからね。そしていつか、飲みに行きましょう。

 

 

 

 

なんだか、朝一発目から偉そうなことを書いてしまいました。月曜日だ、働こう。