×××× IN MY HEAD

筒井です。夢はお笑い芸人のままです。

書評

 

「書評」なんてタイトルをつけたものの、書いたことはない。

 

 

 

朝井リョウ『正欲』作家生活10周年記念作品 特設サイト | 新潮社

 

 

そもそも何かのレビューをするということがあまり好きではなく、僕個人も誰かの感想を見たところで「すごいね!」と斜めに見てしまう困った性格なので、大したことは書けないと保険はかけておきます。

 

 

 

 

 

通常であれば、本作のあらすじなどをここにまとめた上で書評を連ねていくのでしょうが特にアフィの収益とかを得ているわけではないので、有象無象に記載することも保険として記載いたします。

 

 

 

 

また、本作が大変時代的にセンシティブな内容であり、ここで記載している内容はあくまで筒井個人の感想であり「内容を推奨、及び礼賛」するものではないことも、更に保険として記載いたしますね。

 

 

本作、概ね内容というかテーマは「多様性」だ。

 

 

 

「認める」「理解する」「受け入れる」「享受する」

ここ最近、日本だけではなく世界全体がそんな動きを推奨しているような気がする。これは多分「気がする」のではなく特にSNS中毒の僕なんかはTwitterを見ていれば嫌でも目に入る情報であって、今日も「女性人権活動家〜〜」とか「ADHDが〜〜」という過去社会的に「弱者」「少数派」として虐げられてきた人たちが我先にとそれらを象徴する「スター」のような人に続いて見えない敵に一斉射撃をしている場面が多い。

 

非常に皮肉たっぷりに記したが、僕がまず面白いと思うのは「思った以上に見えない敵が巨大」ということだ。まず僕のスタンスとして、これら活動を「理解」はできない。僕は女性の本当の気持ちや、アイヌ民族や、アフリカの部族の人の気持ちが理解できない。だからきっとそもそも新しい価値観を理解することはできない。受け入れることはできる。まずここが論点であろう。そもそも活動家のような団体が忌み嫌われる日本でいきなり欧米で流行っているハッシュタグを掲げ「#Noなんとか」みたいなブームを持ち込まれても、そりゃタピオカのようには流行らん。理解もしない。「やべえ奴らが何かと戦ってる。笑」になる。意識ってのはそのくらい低い。そんなものがどうなっても自分の生活には関係が無いし、例え表明したとしても「ヤバい奴ら」の仲間入りしているというレッテルを貼られたくはない。

 

 

問題はまずここにある。活動家として先陣を切っている人たちがあまりに「香ばしい」人が多い。果たして日本中のレズビアンの気持ちを、その「活動家」は代弁できているのだろうか。そもそも多様性を訴える中で「レズビアン」はそんなに思想が一つに固まった集合体なのだろうか?「レズビアン」(同性婚など)を国に認めるように要請するということは、では下記の場合どうだろう。

レズビアンアンチではなく、あくまで皆様のイメージ(言葉として)認知のある言葉を代用させていただきました。

 

 

 

 

例えば僕が10歳の女の子を本気で好きになって、お互いの了承を得た上で付き合う。

 

 

これは認められないのか。答えは今後100年ずっとNOだろう。きっとそれは法律がとか、子供の人権がとか、色んな壁がありすぎるから「そんなものと同じにするな!!」と叱られてしまうのだろう。でも本気で心から10歳の女の子を好きな人がいて、それらが活動を始めたらどうなるのだろう。

 

人類は皆平等にADHDの人も等しく採用しなければならない時代がくるのか。では何を以て、誰がそれを判断するのか。言われたことを必ず落とす社員が会社にとって必要なのか。それを受け入れることが理想の未来(社会)なのか。すごく難しい。

 

 

 

ADHDの友人が某ネットゲームの味方チームに初心者がいてブチ切れていたのを思い出す。結局、そんなもんなんだよなって。

 

 

ここ最近、関西の某企業が「LGBT YouTuber」を採用したらしい。もう意味がわからなかった。この一人の採用枠を争う為に、たくさんの学生が努力をしたり、お金や時間を使ったんだと思う。ただ結果いきなり採用された「LGBT枠」として悪目立ちしている。平等を越えた、不平等ではないのか。果たして本当に「同じ条件」で採用をしたのだろうか。

 

 

 

女性に対して「結婚してるんですか?」みたいな話も今じゃもうタブーらしい。「子供がいなきゃいけないんですか!?」となるらしい。難しい。ではその人たちは日常の何気ない質問で誰かを傷つけていないのだろうか。調理学校を卒業したのにサラリーマンをやっているような人に「なんでシェフにならないの?」と無意識に聞いたりしないだろうか。実は小麦・甲殻類アレルギーでシェフになるのを諦めざるを得なかった背景は、何らかの持病で子供ができなかったことと、何か違うのだろうか。

 

 

そんな問題が、この本を読んだ後に尽きなくなった。

そして僕の周りの問題をこのように言葉にするのが凄く怖くなった。

 

 

 

 

「それと一緒にすんなよ。」

 

 

 

そう聞こえてくる。見えない敵と戦う人を見ていたら、自分にも見えない敵が出てきた。大変恐ろしいことだ。

 

 

 

だから、理解する側に回るのか。

 

 

それはそれで違うのだ。「あなたのことわかってますよ。」というスタンスは時として失礼で、嫌われる。お前なんかに解ってたまるかという人もいるらしい。少なからず、私もその一人だ。大体筒井をなんとなくわかってくれる人なんて、5人くらいいれば贅沢すぎるので、今の環境が一番だ。社会として僕を認めて欲しい運動はないけれど、友人はなんとなくわかってくれている。

 

 

世の中にその「マインド」が認められない人は、何が欲しいんだろう。何があれば、満足するんだろう。知りたい。知りたいと思って、色々本でも読もうかな。ということがこの本を読んだ後のアクションかもしれない。とても知りたくなった。冒頭でも書いた通り一つ言えるのは、それでも理解はできない。僕みたいなのは、そういうセンシティブなところに入ってはいけない人だから敢えて入らない。ただただ、失礼な質問をする気しかない。そんなこと僕が一番わかっている。

 

 

 

「美白」なんて言葉も使えなくなってきてるらしい。

我々は言葉を自ら殺して、どこへ向かうんだろう。

多様性が、文化を壊すきっかけになっているのかもしれない。

 

何がいいとか、何が悪いも言えない未来はもうそこにあって

秘密警察にずっと監視されているようだ。

 

実は数年後、人々はコミュニティで暮らすことを諦めて、本当に信頼できる「村社会」みたいなSNSだけになるんじゃないか。そこでの共通言語、共通認識、それが自分を自分たらしめるものとして生きていくのかも。

 

 

 

まあ色々書いたけど、僕はなんでも知るつもりです。

理解したつもりも、人より上手いです。

気が合う素振りも、人より上手いつもりです。

 

これはきっと、この先生き残れるかもな。