「生きにくい」というテーマの漫画や自己肯定感が低い事を「善し」とする啓発本がここ数年で溢れだした。LGBTQ的な時流もあると思うけれど、今回そこには触れない。性別的な概念ではなく、もっと精神論的な話だ。(性別も精神論という謎理論がありそうだけれど、俺はそうは思ってないので割愛)
友人がいないことが孤独なのではなく、理解されないことを孤独と言うらしい。近頃は社会から理解されないと思い込んでる人の背中を押すコンテンツが増えた。音楽もそうだろう。弱者に向けた曲が共感を生み出す。なんだかよく考えるとちょっと気持ち悪さがある。弱者ビジネス。この違和感は何だろうね。それら溢れるコンテンツに共感することで、自分が弱くて、孤独である事を再認識しているような錯覚に陥る。いや、それらが溢れていることで「俺は別に異常じゃ無いんだ。みんなそうなんだ。」と開き直ってしまうのだろうか。それでは溢れているはずなのに、なぜ自分の理解者はいないんだろう。そんなことを今日本屋の棚に積まれてる「自己肯定感の上げ方!」みたいなタイトルを見て思った。
あの頃、本当に一部の音楽だけが救いだった。恋愛弱者に向けた音楽がJpopを洗った後に残った今、生き方が下手な人に寄り添ったフリをする曲が氾濫している。バトル漫画やスポ根漫画ばかりだった世界が、生きることが下手な人をテーマにした漫画の台頭に脅かされている。
冒頭で書いたように、あくまで昔は少数向けのコンテンツだった。それが今じゃ世の中に溢れている。
話が戻ってきた。
結局さ、そんな理解者なんてものも存在しなくて、フィクションを大きく描いただけなんだろうね。
こういう人に向けて書いてるよ。っていう魂胆が見えてしまうと、何もかもが胡散臭く思えてしまう。まるで人のコンプをくすぐるクソみたいな脱毛広告と一緒だ。
正しい手法としては、空白を埋める本当の手段は孤独への共感ではなく、その人自身が孤高になる強さを持つことと突き放してほしい。
程々にフィクションを嗜みながら、誰にも理解されないようなコトや世間とのギャップは俺自身が強くなることで殺すしかないのだ。