×××× IN MY HEAD

筒井です。夢はお笑い芸人のままです。

タイムサーフ2024

朝書く日記があまりに重たすぎて、公開30分経過とかで即座に下書きへと格納している。そんな日が何日か続きすぎて、2月になった。明けましておめでとうございます。2024年も8%が終わりました。60歳まで50%を超高速で経過した。

 

 

こうも寒い日が続くと何一つ不幸など無いのに気持ちは後ろ向きに歩き出しますが、相変わらず音楽は素敵なもんで、とりあえずの「インスタント感動」を与えてくれます。タイムスリップとか過去回帰とか時を駆けたり、巻き戻したり、そういう題材のエンタメが昔から好きでさ、えらく感情移入しちゃうんだよね。もう30歳なのに。いつまでも昔にしがみついてるというより、絶対に変えられないものを超越的な力でねじ曲げていくストーリーにワクワクする。それでいて結局どうにもならないみたいな、夢オチでもいい。なんかその振り返った軌跡みたいなのがちゃんと「意味」を持っていたと確認したい。今が幸せである限り、過程のどこにも間違えたと思いたくない。変えられないからこれでいいと、そう思い込んでる節がある。それをぶった斬るような夢見させる作品がたまらなく好きなんだよなあ。

 

歌詞 | タイムサーフ by TEMPLIME, 星宮とと | TuneCore Japan

 

タイムサーフ (Cacao Remix) - YouTube

 

 

夢と妄想と現実がぐるぐるした上で、思い出→未来に進む展開、歌詞として完璧すぎる。

 

誕生日だった。

年々連絡は少なくなり、年々Instagramには子どもや家族の写真が流れるようになり

自分だけではなく、しっかり周囲も年齢を重ねていることを感じる。

 

今日なんて、子どもがプレゼントを抱える写真で溢れかえっていた。いいことだ。

 

本当に忙しい日が続いて、2ヶ月くらい経った。ブログも書かなくなった。続けてきたもの、続けられているものをもっと大事にしないといけない。

 

身近な人がそれなりに元気でいればいいなあ。とか、幸せになってほしいなあとか

ふと思うようになると、「おお、俺も丸くなった」と感じる。

自分が転がりすぎた結果かもしれない。角が取れると言うのは、自ら転げ落ちて丸く"成る"が故なんだろう。尖っていたような自分はもうあまりいない。「らしさ」が消えたといえばそうだけれど、それは20代までの憑き物だからね。

 

 

今年の記事は今日が最後かもしれない。2023年はどうだった?

俺は30歳になる年だから、気合いは入ってたよ。色んなことをしようって。

ただ相変わらず、はてなブログの記事をまとめた自費出版ができていない。

というか、あんま金もねえ。

 

10年くらい必死に生きていた歴史が何かの形で残ればいいなと、常に思う。

世の中にはすごい人や偉い人の話だけが残っていくけれど、その下敷きになった平民の話は誰も気にしない。というか抹消していく。

 

そういう平民の中でも、平民の話を読んで、少しでも共感して、何か思うことがアレばいいなってのがこのブログだし、それを忘れたらいかんね。と、言い聞かせている。俺も俺に書いている。

 

またね、良いお年を。2024まで後少し。。

奇跡

 

本日、クソ長いです。

 

 

 

 

朝霧JAM2023に行った。初のキャンプ形式のフェス。石橋くん(元同僚)がチケットを取ってくれたので、同席する形で。結論、くるりの「奇跡」は最強。

 

 

 

そんなフェス前日、もう何をしても涙が止まらず、首が勝手に動いたり、体が痙攣したりと、職場のストレスで完全にバグってしまった私は何のキャンプの準備もしないまま横になっていた。大袈裟にかけば「モラハラ」といういわゆる今時のハラスメント被害ではあるものの、心のどこかでそんな大事でもないと思ってる自分と、それに耐え切れない自分の心の対立が謎の症状を生んだらしい。今は落ち着いている。

 

正直、適応障害くらいは程度がある上に自分も診断書を出されたことがあるが、日常生活に差し支えはなく、障害というには少し難しい話もあると思う。何度も言うけれど、程度があるから「大したことない」と言ってるわけじゃない。

 

今回もそんな感じだった。当たり前のように好きな時間は何もなく、現実が見えると吐き気が止まらなくなる。原因は「不安」だ。わかってもいる。世の中がこれを「甘え」と言いたくなる気持ち、クソほどわかる。生きにくいヤツだけがずっと生きにくいんだよな、参ったもんだ。

 

 

 

朝霧JAMはすごくよかった。toeやHOVVDYは勿論だけれど、やっぱりくるりってすごいね。そして野外、夕暮れで聴く「奇跡」の威力たるや。たくさん泣いた。優しいなーって。明日嫌だなーって。頑張れるかなーとか。誰も気にしてないよな、とか。虚勢を実像かのように見せるこの心労を誰も分からないだろうな、と。

 

 

 

噂話やいない人の悪口は気をつけようね。

 

僕はそういう人として軽い人たちに負けてしまいました。僕の心が耐えられませんでした。だからそう生きないようにせねばと、誓うのです。気高くいたい。そしてこういうことがある時、人の深さ/浅さが見えたなあと。

 

 

 

NAMEって曲が好きで、昔からずっと聴いてる。もう高校生くらいからだから、12年くらい経つのか。でもその時はただ曲の盛り上がりが好きだったんよな。起承転結みたいな展開がわかりやすい曲で、スイッチが入る感じがね。

 

それが何だかいつの間に歌詞の重たさに気づいたんだか、社畜に響くんだわ。世の中に必要とされてはいないと思い込む人材、代わりがいる人材、自分の評価がわからない人材、自分を信じられなかったり、未来に不安しかない人材、機械のような毎日を送ってる我々に響くんよな。「俺ってなんだっけ?」って。何になりたかったんだろうとか、何が自分の幸せなんだろうって、悩むんだよなあ。

 

そうすると僻んだり妬んだり、はたまた自分をもっと嫌いになったり、大事な人を傷つけたり、心が尖るんよな。勿論うまく答えを見つけて、暴れないように毎日を送ってるんだけど、ある日何かがきっかけで壊れちゃうんよ。誰かが解決してくれることは珍しくて、自分を飼い慣らすしかない状態になる。

 

 

 

俺はもうここまで書いて、今の俺に言い聞かせながら書いてるけど、そんな時の「NAME」が素晴らしくてな。

 

 

存在価値とか存在証明みたいなモノ=「名前を呼ばれる行為」として考えるのはすごく面白くて素敵で、それが唯一世の中で自分自身を証明する確かな「見える」モノというか、少なくとも「親からの授かり物」=「自分が自分である証明」というものを誰かに呼んでもらえる以上、自分というモノが実在して、さらに必要なんだということを実感できる。勿論名前を呼ぶだけでその後の話が何によって、自分にとってプラスかどうかはあるかもしれないけれど、「自分」であることを認識することに、それ以上の何もないなと。

 

歌の中ではきっと何か(自己嫌悪的な)に染まって、自分を見失ってる人=自分(フロントガラスに手首だけ映るのは運転者だから)が「君」に呼ばれて、生き方を取り返すストーリーなんだろうな、もっと深いんだろうけれど。僕にとっての君は代え難い人で、冒頭導入部分の「行けるよ、どうかしたの?」=君の言葉であって、Aメロは過去回想で、冒頭の歌詞は曲終盤っていうなんか捻った小説みたいな作り方がまたね、たまらんのよ。

 

まあ、気高く生きるのよ。

 

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https://youtu.be/lvakUVzo3yo?si=-xuaN83A9oLZv46q

 

 

それでは。

 

 

 

調子はどう?

 

どんな感じ?

 

 

 

TwitterもといXを辞めてから1ヶ月くらいが経過し、私は恋人が100人できて、宝くじも当たり、ドバイに家を買い、今は召使いがこのブログを書いています。親は不老不死になりました。

 

 

とまあ、そんな未来は訪れず。当時と何も変わらない毎日を過ごしています。こんな感じでね。今日も今起きたよ。

 

仕事柄SNSを扱うので、私のアカウントは全て「test」という幾つかの企業監視用アカウントに切り替わり、フォロー10、フォロワー0というbotのようなアカウントに生まれ変わっております。

 

 

少しドライな話をします。

 

 

人付き合いの断捨離をする時期が大事なのじゃないかと自分を肯定している時期がTwitterから離れて少しだけありました。言わなくてもいいことを言う場所なんていらないんじゃないかなと。前段はきっと正しいのですが、言わなくてもいいことを言える場所じゃなく、言える人が大事でした。気づけばもう十二分に幸せな状況が長らく続いていて、必要な人だけが私の周りにいてくれているんだなと。

 

それと同時に想像以上に自分もやはり誰かの必要な1人ではなかったと気づきます。自惚れてる訳ではなく、麻痺していたんだなという実感。おかしいね。

 

 

 

最近の僕について、少し書きます。

 

最近は会社のメンバーほぼ全員で屋形船に乗りましたが、あまりに飲みすぎて船を降りてからの記憶がありません。

 

ただ船着場のアイス自販機でひたすらアイスを買い、女子社員に配っていたというガールズバー根性が流れ出ていた模様です。こちらは撮影されており、部長に「弱み」として握られております。安定の俺。

 

 

そして帰り道に何故か財布を無くしておりまして、翌日そのまま「暴力的にカワイイ2023」(音楽イベント)に向かいました。財布は高円寺の警察に届いておりました。おかしいね、降りてもないのに。中身は全部ありました。日本ってスンバラシイ!

 

少しバンドに飽きました。飽きたというのは大袈裟だけれど、今はもうFuture bassみたいなよくわからないジャンルばかり聴いてます。これも暴カワの影響でしょう。

 

10月になりましたね。

 

今年もあと3ヶ月を切った。30歳が近づいてきたけれど、20代より楽しい気がしている

 

 

もう20代に心残りは無い。何もかもを楽しんだ。

 

 

そう言えるようこのブログを21歳くらいの頃に「思い出作りに励む」と書いたけれど、きっと達成した。

次のステージに備えて、今日も飲み行こう。

霧中

そういえば本読んでねえな。

 

そう思って段ボールから大量の書籍を取り出すと埃に塗れた古文書のようになっていた。なんかごめんなって思いながら、乾いた布でスリスリとして畳に並べていく。老子が出てきた。柄にも無く大学の専攻が中国文学という私は謎の書籍が自室にたくさんある。久々に開く。老子、面白い。大人になると感性が死ぬと思っていたけれど、何しも適齢期があるのかもしれない。確かに俺がフリッパーズギターを好かんのは適齢期に聴くことができず、プライドみたいなものがあるからだろう。

 

つま先立ちではずっと立っていられない。相応の生き方をする方がいいって2000年前のおじちゃんが書いている。おお、すごい。名声も欲しがっちゃいけない、妬みや恨みを買うって書いてある。おお、すごい。大股で歩くなって書いてある。長続きしないし、自分の歩幅で歩けってさ。こんなの尖りまくった大学生時代に読んでもそりゃ何も刺さらないわけで、俺は大股でも世の中を闊歩できると思っていた。でも実際はそうでもない。常に自分の偏差値が50以下かそこらと思いながら、何者にもなれない僕たちは生きていかなきゃいけない。

 

一方、無茶ができたのは28歳くらいまでだったような気がする。でもやってきてよかった。引き際のようなものや、諦めが見える。ダメになることを知らないと、虚勢に生きることになる。さぞこれは辛いだろう。こうして物語から自分は少しずつ脇役の脇役のようになり、相応の生き方をしていくんだなと思う。それでいい。無茶をしていてよかった。なんでもできるわけじゃないと知って、何ができるのかを見つけることが面白いのかもしれない。それがこの30歳に突入する新シーズンの生き方なのかと思っていたらこんな時間になっていた。

 

小難しい話が増えてきた。来週、ベトナムに旅立つ。カメラとスマホ、財布、Tシャツ、それ以外は現地調達。

 

 

もう9年か。

FoZZtone『umbrella』下北沢GARDEN20140726 - YouTube

昔から

昔から、勝手に体とメンタルがリセットされる期間がある。余裕が無くなってとかではなく、ある程度何かが落ち着いたタイミングで熱が出たり、数日間頭痛が続くような日がある。それがこの二日半。気持ちの問題なのだろうけれど、免疫が落ちているというか、やや鬱屈とする。半分ズル休みみたいなもんだ。

 

 

頑張り方を社会人で学んだ。昔から頑張れる人でもなく、並な人生を送ってきていたし、色んなことをサボった。だから頑張り慣れていない体に仕上がってしまい、結局色んな人に迷惑をかけることで、連鎖的にメンタルも崩れるという面倒な体が仕上がった。社会人8年目とかになって、いつになれば普通の生活が送れるんだろう。というか普通の生活って、なんだろうね。

 

 

 

さすがに明日からはリモートで二日間復帰する。そして土日、何もせずに家で過ごす。

 

 

あと半年。俺の人生が変わるのはあと半年。そう心に決めて働いている。何をしようか。イギリスにサッカーを観に行きたいし、イランあたりをフラフラとしよう。元に戻れ、自分。働け。

 

タイパとコスパ

タイパは、タイムパフォーマンス。

コスパは、コストパフォーマンス。

 

前もこんな話を書いた。

 

あくせくと毎日働き、TikTokInstagramでショート動画を見漁り、少しでも手軽に情報を得ようとする我々はそんなに浮いた時間で何がしたいのだろうか。何をするにも安い方へ手軽な方へ、無料でより良い物へと時間を使い、そこまでして節約をして何を買うのだろう。大人になっていく中で、無駄に対する警戒心が強くなってしまったが故に効率化だけを求めるようになった。というよりかは、効率化の世の中に流されてしまい、元より存在するマイペースさが壊された。いや、自ら壊してしまった。

 

手軽に情報が取れるようになった今、作りたいご飯があれば30秒もあればレシピに辿り着ける。見たい景色は10秒あれば出てくる。映画の結末、音楽、何にしても1分以内には結末に辿り着けることで本来得られる幸せを失いかけている。

 

気になった居酒屋に入る前に食べログInstagramを開き、評価が2.5点だった。口コミがあまりよくなった時点で我々は入るのを躊躇う。

 

そうじゃない日があるべきだ。

 

サブスクで飛ばしながら聴くのではなく、アルバムを買って面倒ながらPCに入れて聴いてみたり、雑誌を買って何か得たい知識を得てみたり、感性に従ってお店に入ってみたり、本来僕らは誰かの評価や、手軽な情報に惑わされず生きていたはずなのに、いつの間にか名前も顔も知らない口コミや"投稿"に左右されて、本心を捨てている。

 

やめよう。無駄なものをたくさん増やして、経験して、後悔して、自分の感性を殺さずに生きていこう。

 

そう書くことで、自分に言い聞かせている。

 

コスパ・タイパ、そんなもの、自分の好きなことにはいらないのだ。