×××× IN MY HEAD

筒井です。夢はお笑い芸人のままです。

肯定はない

 

 

 

文字が小さいというコメントをいただきましたので、大文字で記載します。

 

 

 

冗談はさておき、私はこの文字の小ささを変えるつもりはございません。他人様の庭に来て「もっと植物を植えた方が見栄えがいいですよ。」と言われて緑を植えるほど世間に対して優しくはなれないので、このままやります。コメントは非表示になってますが、恐らく本人には見えている設定だと思いますので、皆さま大丈夫です。匿名でたくさんコメントしておいてください。記事としてお返事します。

 

根に持ってるかと問われれば、持っています。自分のテリトリーを誰かに色々言われることに、素直に従えないお年頃のまま27歳になってしまいました。非常に残念な大人が私です。

 

 

 

直近、大手金融機関の案件で節約系インフルエンサーにPR以来をする話がありました。改めて、私はそんな会社に勤めています。

 

実際、インフルエンサーと言われる人も今では美貌やイケメンを売りにしている人だけではなく、何か特定の事物に関してのプロフェッショナルみたいなところがほとんどです。ある日突然、大学生がいきなり数万フォロワーになってたりする。そしてそれらコンテンツが流行ると知れば、必然的にその投稿を真似するユーザーが出てきます。文字のバランスや投稿画像の雰囲気、フィルターやハッシュタグ、オリジナリティの皮を被った模倣品が溢れている。

 

 

節約系インフルエンサーは闇が深かった。自己の生活がいかに苦しいか、いかに考えて生きているか。財布だけではなく、預金の中身までをコンテンツとして掲載し「いいね」「コメント」に一喜一憂している人が数万人といた。『新卒2年目手取り15万円1R女子』『社会人5年目21万円1K(無印良品)』探せばウヨウヨと出てくる、世の中に対して自分が下に属しているという(ここがもう理解できない、もっとやばい人いるだろ…)謎のマウントから生まれる隠しきれぬ承認欲求。見方を変えれば、そんな生活のこともコンテンツにしてしまうポジティブな心。お金という物差し。

 

『無職ホームレス58歳独身』みたいなコンテンツはInstagramじゃ絶対受けない。きっとここにあるのはフォロワーの「憧れ」と「マウント」みたいなところだろう。

 

僕には人気者になるために不特定多数に預金や家計簿を晒すことなんてできない。人が「ちょっと気になる…」という卑しい気持ちを利用した週刊誌のようなコンテンツに辟易とした。

 

でもきっとこれがリアルなんだと思う。別に自分が満足な暮らしをしているとかそういうことを言いたいのではない。それらを参考にして、はたまたそれよりはいい暮らしだと比較してみたりして、みんなどこかで自分のポジションを確かめている。心に悪すぎる。

 

 

そんな風にはなりたくない。うちはうち。よそはよそ。なんだか煌びやかな世界に深い闇を覗いた気がしてしまった。

 

好きなものと好きな人だけに囲まれて、僻まず、妬まず。誰の比較対象にもされない次元で生きていたい。

 

 

変わらないのは

 

努力家が報われない状況や、人間が諦めるシーンが好きだ。

 

これだけ書くと性格が悪そうな話になってしまうけれど、まあそうだとしても意味は違う。

 

何事も、そういうもんだよなとあらゆる状況を受け入れることができる。そんな気持ちにさせてくれる。驕らずいられる。

 

何処も彼処も世の中には成功体験やポジティブな他人談で溢れすぎて、そんなもの麻酔のように一時的に痛みを麻痺させるだけで、抉られた傷は塞がれてはいないのだ。誰が何と言おうと、現状の課題解決なんてない。言葉に力はあるけれど、言葉によって解決することはほとんどない。ただの栄養ドリンクみたいなもんだ。飲んで元気になっても、仕事が終わるわけではない。終わらすのは自分自身なのだ。そして大人になればなるほど、ドリンクの効力は自分の体験が邪魔して「誰かの言葉」も薄れていく。世の中の大半が有神論者なのは文化的な背景もあると思うけれど、きっと誰かの言葉ではなく「絶対的な崇拝対象」みたいなものがあれば、それだけで生きる活力になるからだと思う。厳密に言えば「神の言葉」だからこその効力で、「人間の言葉」ではないから受け入れる人たちがいるのだ。

 

そう、僕らは何につけても「理由」が必要な生き物なのだ。

 

 

 

何度もここで書いているように、FoZZtoneというバンドが休止してしまったのも、もう何をやっても泣かず飛ばずになってしまったからに違いない。2009年頃からの試みはどんなバンドよりも先進的で、ライブの録音・録画OKだったり、リスナーがアルバムの曲順を決めたり、そんなバンド自身を鼓舞し続けていた曲たちも2013年で限界を感じていた。だから2014年にあんなにも暗いアルバムを出して休止した。もう参ってしまったんだと思う。最後の力を振り絞って出したシングルは、過去作と違って必要以上にメッセージ性が強かった。何だか恥ずかしいくらいに真っ直ぐな曲で、当時かなり面食らった。

 

変わらないのは世界の方か

頑張っている自分の方か

Do I understand?

誰が答えを解っているだろう

 

陽キャだ何だと言われる人も絶対何か抱えている。毎日明るそうに見えるアイツもそれを隠すのが上手いだけで、迫る絶望と戦っていたりするもんだと思いたい。というか、そう思わないと自分がどんどん卑屈な人間になってしまいそうだ。「人間力」みたいな言葉があるかはわからないけれど、その「隠す」上手さはきっと「人間力」の一つに違いない。隠しきれずにそれが溢れ出てる日もきっとあるだろう。別にそれだっていいし、草臥れて死にかけたっていい。僕も、より人間らしく生きていたい。自分で自分を鼓舞して、色んな人と照らし合わせて、重ねて、移入して、まだ行けると笑っていたい。

 

 

そんなことを、日曜に会社へ向かうバスで思ったのでした。

 

 

 

トライアル

 

バスの後部座席中央に座って帰っている。仕事はたくさん残っているが、一日の引き際を見極めるのも大事(な仕事)だと言い聞かせて帰っている途中だ。やれどもやれども、仕事は溜まる。このご時世幸せなことだとか、この年齢で役職を貰ってるのだからとか、何千通りの言い訳をしながら、どこかで楽しんでる俺を見ながら、月曜日を終える。今日もそれなりに元気だ。なぜなら昨晩もピザを食べたから。

 

 

16歳の頃、何気なく聞いていたpillowsが12年経って確実に刺さるようになってきた。出会ったのはwake up!が発売された頃だから多分2008年とかだと思う。あの頃丁度レーベルを移籍して、avexに行ったから恐らく田舎の学生の僕の耳にも何かしらのPRで届いたんだろう。ありがとう、大手レーベル。全校100人もいない小学校で育ったような小さい町で、俺だけが知っているようなバンドに浸っていた(イキっていた)頃は特に歌詞なんかも気にしなかったけれど、高校に通い、勧める音楽に共感してくれる大事な友達にたくさん出会って、たくさん教えてもらって、大学、社会人となり、もう当時のような感性は確実に消えた僕を燃やすのは当時の音楽しかないことにふと気づくこの頃だ。そして今日、数年ぶりに2012年頃に発売した『トライアル』を不意に聴いた。一体40歳過ぎのおじさんがどんな気持ちでこれを書いたのだろう。

 

ようやく日の目を見た舞台から降ろされるようなプレッシャーや、信じた人たちが離れていくような感覚を経験したことはないけれど、それらが『トライアル』に集約されている気がしてならない。確かに06〜11年頃までに遅れてきた僕のようなファンたち(1989頃デビューだからスピッツミスチルが同期とかだし)が着いてきて、それらがまた離れてしまったのがその頃なんじゃないかな。ポップとオルタナは当時のバンドブーム(多分四つ打ち全盛期)に埋もれてしまった。

 

だからきっと『トライアル』に収録されているリード曲の前「持ち主のないギター」はあんなに暗くて、悲壮感に溢れている。

 

pillowsが素敵なのは、その次のリード曲「トライアル」がこれらの悲壮感から僅かな希望みたいなのを見出しているところで、本当にこういうストーリーのある曲を作るのが上手い。「ハイブリッドレインボウ」と繋がる「雨上がりに見た幻」のように、楽曲を楽曲で伏線回収していく。ぶっ潰れた後の「トライアル」めちゃくちゃ男臭くて痺れる。山中さわおを救うのは、山中さわおの作った楽曲であって、それ以外何もない。クリエイターとして自分の生み出す作品に自分を鼓舞させるなんて、文豪みたいじゃないか…。

 

 

ああ、家に着いた。

トライアル、聴いてください。過去を知れば知るほど、この曲が誰の為に作られたのかというのか理解できるし、曲だけじゃなくて、何度も這い上がるpillowsと山中さわおが好きになる。

日曜夜にピザを食べる話

 

めちゃくちゃに眠たい。金曜日からロクな出来事がないけれど、全て何かの助走であって、これからとてつもない跳躍をする為の後退であると言い聞かせて月曜日を終えた。余りにも助走が長すぎるので少し運命をプラスにさせようと、日曜の23:45ピザを頼んだ。こんな時間までピザを作る為に待機してくれているドミノピザのクルーに感謝しながら、注文ボタンを押した。そもそも3枚で¥2,000って大丈夫なのか。安すぎないか。物価と給料、もっと上がっていいぞ。

 

ピザが届いた。変な時間にインターホンが鳴るとドキッとする。

 

そんなホカホカアツアツのピザ食ってたらめちゃくちゃデカいゴキブリが部屋に現れてどこかへ消えていった。我が家にそんな生物が現れるのは住んで約10ヶ月にして初めてなのですが、千葉県船橋市にある祖母の家で祖母と二人暮らしをしていた時、奴らを毎日見かけていた。帰ってくるとリビングに暗闇より暗い影が4〜5匹いて、別に汚い家でもないのに古いから仕方なかったんだ。最初はもう鳥肌が立つ程気持ち悪かったけれど、俺がその家を出る頃はゴキブリと対峙しながら祖母の作った飯を食うくらい生活に馴染んでいた。バルサンで供養をした次の日、恐ろしい程の数が床に転がっていたのを鮮明に覚えている。俺の名誉の為に何度でも言うけれど別に俺の家も祖母の家も汚くはない。そもそも家に出る害虫なんて綺麗とか汚いとか関係なく出るのだ。こうしてまた鉄のメンタルができあがる。あの経験すら僕の精神状態を作り出していたと考えられる程、俺はポジティブな仕上がりになってしまった。

 

 

 

 

だから昨日もピザを食うことに集中した。ゴキブリはどっかに消えて、ちょっと笑えた。険しい顔しながら24時にピザを食う独身男に恐れ慄いたのであろう。明日から始まる地獄のような日々に備えて最後の晩餐を邪魔せずいてくれたその気概に感謝をしつつ、その辺で卵でも産んでるんだろうから、そのうちバルサンでも焚いてやろう。供養供養。寝てる最中に足の周りを這いずる可能性とかを考えるとさすがにゾワゾワするけれど、探したところで出てくるはずもない遺失物みたいな昆虫を探す元気はピザで膨らんだ俺には無かったので、布団をバサバサして、威嚇して寝た。満足気な表情をしながら、眉間に皺を寄せた威嚇フォームの顔をした寝顔になっていたに違いない。

 

 

 

人生プラマイ理論を僕は唱え続けている。基本世の中はゼロになるように作られているから、嫌なことがあれば別にそれは何かをプラスにしていく為の助走か、いいことがあった時の反動でしかない。大体このサイクルは1〜3ヶ月で訪れる。別に変な宗教に勧誘するつもりはないけれど、この便利なマインドを世の中に残していきたいとは思っている。

 

 

ただあまりにマイナスが続くと、そのなんか陰の空気に心ごと持っていかれて夜が不安になったり、いらぬ心配をしたり、イライラしたりもする。そういう時は力技でプラスを呼び込むしかない。これがなかなか強い。そもそも人間、落ち込んでたら飯も食いたくないし、誰から声をかけてもらっても嬉しくないし、聞く気にもならない。思春期を過ぎれば音楽も日常を麻痺させるだけで、何も救ってはくれない。そういう時は自分で機嫌を取るのではなく、陽を呼び込むしかない。それがドミノピザなわけ。さっき飯を食いたくないと書いたが、あれは嘘かもしれない。落ち込んでいても生きている以上生命装置には抗えず、お腹は空く。

 

 

まず、奴らは電話すれば基本こちらがどんなメンタルだろうと来てくれる。落ち込んでいてもこちらの精神状態を気にせず機嫌良くピザを持ってきてくれる。親が亡くなっても、親友が遠くへ行っても、その日に電話をすれば笑顔でピザを持ってきてくれる。そんな人なかなかいない。今は家の前に置いたままにしてくれるから、寝ぼけた顔でも会う必要はないし、アプリならカードで決済できる。ピザを選ぶ瞬間からもうプラスの空気が溢れてきて、頭の中はピザでいっぱいになる。初恋の相手が家に来るようなドキドキ感があるわけ。もうそんなの僕には無いけれど。ピザのバイクの音なんか聞く為にテレビの音量下げちゃったりしてんの。そんな28歳男。ピザ届いて開けてテーブルに並べたりして、YouTube見ながら素手ベタベタにして、「あースマホ触れねえよw」なんて一人で呟いて背徳感を味わいながらピザを食べる。3枚を均等に食べちゃったりして贅沢な気分味わうわけよ。

 

 

幸せはパワープレイで寄せ付けられる。

 

 

言い方を変えれば幸せは¥2,000くらいで買える。変わらぬ日々が面白くないとか、仕事で嫌なことがあったとか、そのスタバのフラペチーノ3杯くらい我慢してピザ頼もうぜ。ほら、もう今日はピザしか食べれない頭になってる。なんか幸せじゃん。

 

 

 

そんなことを思いながら、ネガティブ思考にパワープレイを仕掛け、いつの間にかお腹となんかよくわからない気持ちが満たされた昨日の夜だった。ピザを食べずにゴキブリと対峙する未来をピザを頼むことでピザとゴキブリと対峙する未来にしたわけ。危ねえ、プラマイゼロ。

 

 

昔のブログを書いてるテンションだった。別にいいことがあったわけじゃない。むしろめちゃくちゃ辛い日だった。けれどピザがまだ冷蔵庫にある。明日も頑張れる。

 

今日も明日も無理矢理いい日にしていきます。おやすみなさい。

 

 

光の層

 

渋谷区神泉町。大坂上というバス停から82番に乗って世田谷方面へと向かう。向かうというよりかは、帰る。戻る。家に向かう。246号を抜ける。今は三軒茶屋付近の上馬を過ぎたあたりを走っているらしい。一日中スーパーカーの『WONDER WORD』を聴いていたし、イヤホンを外しても流れていた。朝と同じ一番奥の椅子の真ん中に座って両目で景色を追う。これが最近ストレス解消になることを知った、楽しい。道が混んでいてブレーキランプが並んでいる。工事中らしい。家に帰ってやることもない僕は特に急いではいないし、こういう時にイライラしない性格でよかったと思う。1時間かかっても家に帰れればそれでいい。

 

 

 

最近、仕事が少し落ち着いてきたにも関わらず、物量というよりかは精神的にあまり良くない日々が続く。渋滞にはイライラしないのに、その他社員の動きが気になって仕方ない。俺がこれだけ積み上げてきたのになぜ努力を怠れるのか、なぜ今やらないのか、どうして怠惰なのか。そんなことを思ってしまうのは非常に健康ではなく、こういう思考は悟られやすい。そもそもプラスの思考よりマイナスの方が悟られやすいのは当然で、顔や態度、少しの仕草にもそんなものが出たりする。ニコニコしていれば少なくともマイナスで取られることは稀有だ。できる限りフラットに、平等に、その人のキャパシティやマインドで仕事を考えてあげたい気持ちと、黒い労働を強いる私がいる。私は日曜に働いて、彼らは平日の定時に帰っている世界が健全なのか。私が定時帰りに染まることで、売上や会社に影響が出たらどうするのか。そんな不安のせいで同じ状況にはなれない。世の中、疑問だらけだ。

 

 

僕一人がやったところでそんな変わらない、むしろ私が自意識過剰すぎる自尊心の塊なのも承知している。だから僕に合わせてほしいなんて思考は無い。むしろそうなると私が評価されなくなるので勘弁はしてほしいのだけれど、マインドを揃えるのは非常に難しいと思うこの頃であります。

 

 

 

 

 

 

 

これは何かに似ている。そうだ、自粛だ。

 

 

 

 

 

 

 

どうしてみんな外に出たり、飲んだりしているのだろうと憤りを感じている医療従事者や、しっかりと規律を守っている一般市民はきっと私のツイートを見て「家だろうと友達呼んで飲んでんじゃねえよ。」なんて思うのであろう。一人の頑張りではどうにもならないことを、各々の正義がそこにあって、視点を変えればどちらも正義になってしまうような混沌とした状況は今の日本を見ても一目瞭然な通り、解決方法や和解方法は無い。生活に支障が無ければフェスなんて絶対反対だけれど、イベント関係者の生活はどうなってしまうのだろう。不要不急のイベントの線引きは誰がするのだろう。フジロック開催後のKing Gnu常田大輝の叩かれ方を見て思ったところだ。

 

果たして、自分の正義はどの程度周りと異なるのだろう。どの程度、合っているのだろう。怖くなる。

 

 

結局、100:0なんて無い。妥協の繰り返しなのだろう。

 

 

というか今はそうとしか正解が見つからない。

 

 

では私は折れます。妥協します。

 

 

明日も働こう。

対峙

 

どうやら男性にも生理というものがあるらしく、周期としては28日前後らしい。これは割と世の女性と同じくらいなのでは無いだろうか。辛さで言うと1/2とのことで、比較するのも烏滸がましいレベルではあるが、一応あることはあるという結論らしい。俺が今現在、それであればよい。

 

 

 

 

 

筒井自身、少しずつ鬱っぽくなるのを感じている。重体ってほどでもないので、罹患している人からすれば僕なんて似非にしかすぎないのだけれども、どうやら精神的に落ち着かない日々が続いている。焦りや不眠のような気持ちの症状だけでなく、謎の微熱や頭痛。少しずつ全身がアラートを出している。2018年頃、前職を休んだ頃に似ている。変わったことと言えば、ある程度強くなったというくらいで、誰しも折れる時は折れるのだ。またこんな時期がやってきた。誰にも迷惑をかけず、悟られず、とにかく対峙するしかないのだ。誰かに頼ったところで回復しているのであれば、とっくの昔に元気になっているのだから。

 

 

 

 

誰しも一度どこかで心を壊されるとそれはもう完全修復は不可能なのだろう。言わば治療不可の病。怪物が棲み始めた以上、奴らは再び出てくるタイミングをずっとずっと待っている。誰の所為ではなく、僕が生み出してしまったソイツとこの先何十年と対峙していくことになるのだ。気が重くなる。一体いつになれば、コントロールができるようになるのだろうか。

 

 

別に誰かが羨ましいとかはなく、環境として恵まれていない訳でもない。お金にも困らず、衣食住に満足している。ただただ、得も知れない倦怠感と理由の無い焦りから逃れたいだけなのだ。今日も働こう。きっと休みが必要なのだ。無間、無限の休みが。

渦になる

「休」

 

 

もうスマートフォンを持ちながら寝そうになっている、0:58。会社の大好きな先輩からお昼頃不意に「筒井さんは仕事に飽きたりしないの?閉塞的な気持ちにならないの?」と聞かれた。どうやら話を聞くと周りにそんな燃え尽きてしまった人がいるらしい。

 

燃え尽きることができるなんて素敵だ。よほどハードルが低いんじゃないかと頭をふとよぎったけれど、きっとそんなことはない。見知らぬ人の話なのに失礼すぎる。いやいや、本当に燃え尽きてしまったのかもしれない。オリンピック開催中に一般人が燃え尽きるなんておかしな話だ。でも僕もなんとなく知っている気がする。こういう気持ちは一度芽吹くと刈っても刈ってもスキを見て生えてきやがる。家の裏、室外機近くに咲くドクダミみたいに繁殖を続けて、飲み込んでくる。蝕んでくる。知らずして自分も日陰で咲くようになる。

 

 

仕事なんて人生のメインミッションじゃない。健康で文化的な最低限の生活を送る為に時間を使う人生の番外編クエストのようなもので、それはサブミッションであって、仕事をする為に生まれてくる人なんていない。ただただそれをすれば、よりよい生活や欲しいものが手に入るというミッションなのだ。言わばこの世界なんてスマホゲーと一緒で、コツコツ「魔法石」みたいなものを色々なクエストをやりながら卒なくこなしていくしかない。ゲームに飽きることだってある、それなら仕事を変えればいい。ジョブチェンジをすればいい。大事なことはドラゴンクエストが教えてくれた。僕らが自我を持ち始めて、将来の夢を考えるようになり、いよいよ高校生くらいから考え出す「普通の生活が送れればいい。」なんてものも、もう稀になってしまった。

 

-ここで寝落ちしていた。朝になった。バスに乗る。-

 

僕は休日に笑える日が送れればそれでいい。そのためにお金を貯めたり、仕事をしたりして、いかに笑いの為にお金を使えるかが僕のメインミッションだ。

 

僕たちはいい歳になって、何をすれば自分が楽しいかを知っている。ただただスタバでコーヒーを飲む、カラオケに一人で行くことなのか、CDを買うことなのか。稀に趣味も無く、休日は特に好きでもなくなんとなく寝ているだけという人に出会うことがある。よほど人生を怠慢してきたのか、自分が何に楽しいと思えるのかを忘れてしまっていたり、見つけてこなかった人は案外多い。きっと今からでも探すのは遅くない。探せない人はご一報ください。筒井、ご一緒させていただきます。

 

 

 

 

「バス」

 

 

 

いつもバスで世田谷から渋谷に向かう。今もそうだ。毎日同じ道を通っているにも関わらず「この人いつも乗ってくるな。」という人がいない。毎回ご新規のお客さんが乗り込んでいるなんてことは絶対ありえないのだけれど、電車通勤の頃のような「3号車のこの人、いつもここ座ってるな。」というあの一方的な親近感が無い。

 

独我論的な話になってくる。

 

Twitterを見ていると同い年くらいの人たちがみんな励まし合いながら仕事を続けている。バイトも、学校も続けている。距離を隔てた関係性がこんなにも上手くいき、知れば知るほど破綻も見えてくるのであれば、大多数とはTwitterのような付き合い方を続けていきたいものだ。そこにその人が存在しているか、していないかなどはどうでもよく、同じような歳や、境遇や、共通の趣味を持った人が「いるかもしれない」という安心感が大事なのだ。