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コロナウイルスの存在しない世界線であれば、今頃オリンピックに向けて日本中が無理矢理にでも盛り上がろうという気概に包まれていた頃だろうね。
家電量販店はテレビを叩き売りするだろう。食料品メーカーはオリンピックとのタイアップ商品を販売し、テレビ番組は過去のスポーツ名場面大賞みたいなものが組まれる。CMはきっとコカコーラと日清だろう。そして街は『GO FOR 2020』みたいな旗が電灯に結ばれていた世界線がきっとあった。多分、あったのだ。まるでスポーツのできない僕にオリンピックという国民的娯楽行事からは程遠く、きっと観てもサッカーくらいだけれど、広告業に携わっているからには何らかのキャンペーンに巻き込まれていたんだろう。これに関しては少し提案も面白そうだったから残念。とは言えオリンピックが無くなったから劇的に売上が落ちているわけでもなく、アナログ一本だった旧式の会社は(老舗と言うべきであろうか)WEB広告へ切り替える準備をしている。僕らが毎日乗っていた電車広告も広告費を払って誰かが掲載しているのだ。今じゃ見る人が少なくなり、きっと価値が暴落している。鉄道関係のハウスエージェンシーはそんなものじゃ死にはしないだろうが、相当痛手だろう。僕はアンチ電車広告だから淘汰されてほしい側だ。あんな広告、これだけ「数字」を求められる世の中で一体何人が見て、どうやって成果を計測するんだろうか。業界5年目だけれど、僕にはアレを胸張ってお客に販売する自信はまだ無い。
想像もしなかった2020年に、きっと少しだけワクワクしていたり、得をしている人も少なからずいるんだろうね。絶好調だった就活がボロボロになった人もいれば、全くもってダメだった人たちはコロナを理由にきっと来年も就活が可能になるのかもしれない。コロナ世代なんていう名前がメディアによってつけられ、氷河期世代みたいな使われ方をするのだろう。恐らく、特定の人たちは今リセットされている。無駄な文化(文化に無駄などきっと無いのだけれど)が淘汰されようとしているこの状況こそ、本当に価値があるものを見抜く試練だと考えてしまう。
政治的なコトは相変わらず書けないけれど、ある程度働き方が変わる未来に僕はワクワクしている。当然コロナウイルスを肯定するような気は更々無い。ボーナスが下がるかもしれないから憎いが、僕ら広告代理店はいち早くリモートワークの恩恵を受けるのかもしれない。リモートでの打ち合わせにそんなに支障は無い。むしろ資料を印刷する必要も無いし、タクシー代も浮いているし、家で自炊をすれば昼飯だって助かっている。果たして僕らが当たり前に買っていた「コンビニ弁当」なんて「僕」(この世にコンビニ弁当がいらないという極論じゃない)にはいらなかったんじゃないだろうか。外で毎日買っていた少し高いコーヒーも、家で1L¥110のコーヒーで十分なのではないか。自分で働いたお金を何に使うことで幸せが得られるのか、よく考える。正しい使い方なんて無いけれど、個々にとって正しい使い方が求められているんだ。そしてこんな状況にも関わらず「無駄」が一つもない生活を送っている人は少し異質だ。鈍すぎるのか、最先端だったのか。
お金を使うと言えば、波多野裕文(people in the box,vo)の限定生産アルバムを購入した。4年前にライブ会場だけで販売されたという僕にとって幻みたいなアルバムが突如限定で販売を開始した。少し前から再びpeople in the boxを聴き始めていた矢先だったこともあって迷わず購入をした。そして今日、本人からの手書きメッセージとアルバムが手元に届いた。アルバムを聴いていたらこんな時間になってしまったが、どことなく不気味だけど動きのある音像は今の世の中にピッタリな気がして、出るべき時に世の中に出回ったような、そんな気分がする。
まだまだきっと自粛は続き、今まで以上に新しい生活に慣れることを得体も知れない「バイ菌」に「僕ら」は試されている。外に出ないでなんて僕から言えたもんじゃないけれど、一人一人の地味な意識が何かを変えるかもしれないという期待は嫌いじゃない。国民が一体となればいいらしい。なんだか僕はオリンピックよりその方が国民が一つになるチャンスな気がする。国民が一体となるその先に何のメリットがあるのか一切予想できないけれど、それはそれで活気がつきそうだ。不満や先の見えない愚痴は親友の間柄だけにして、何をすべきで、何をして、何があれば自分は幸せになれるのかを考えよう。きっと何も思うことなくオリンピックを家で観ているより、この時間の方が有意義だ。きっかけは大体ネガティブから生まれるのかもしれない。そう思わない?