×××× IN MY HEAD

筒井です。夢はお笑い芸人のままです。

這い上がる美学

 

比べることをしなくなったのは、自分が必死だからだろう。

 

 

最近、きっとまた一回りくらい強くなった気がしている。僕は僕の生き方を信じている。ブレない何かがあるわけではない。僕だけの宗教のようなものはブログによって言葉にされることで、これが経典となっていく。自由な生き方ができている今、十年後の僕はきっと「あの頃は本当によかった。」と言うだろう。今がどれだけ辛くても、過去は美化されていく。美化されていくことが、僕の中で確実だからこそ何があろうと、今を受け入れるのかもしれない。毎日同じようなことを書いては、自分を納得させている。昔からここを見ている人がいるのであれば、もういい加減同じようなことを書くのはやめなよと止められそうだ。

 

 

エッセイを書こうと思った。何を以てエッセイと呼ぶかも知らないような僕だけれど、気づけばたくさんの人がブログや、僕の考えていることを面白がってくれていた。本当に嬉しいことだ。大人になればなるほど「大人だね。」と褒めてくれる人たちが増えた。なんて不思議なことだ。そして僕も「大人だね。」と不意に使ってしまうことが増えた。歳を取るごとに褒めることを苦手としていく僕らは、勝手に年齢というフィルターをかけることで「大人だね。」という褒め言葉を都合よく使っていくことになるらしい。どんな言葉であれ、ブログを読んでいる人が1人でもいることが俺は嬉しい。

 

 

知り合いが自費で本を作っていたりすることがとても素敵で、何かしら残したくなってしまった。僕は何かを創作するようなことはできないから、ありのままを書いた「まとめ記事」のようなものになるかもしれない。そんなものは販売できないので、ある程度作るだけ作ったら、無償で配布しようと思っている。あくまで僕は有名になりたいわけでも、わかってもらいたいわけでもない。どうせそんな印刷物を生み出してしまうのであれば、なぜ残したいと思うのかというのを、最後に書いておきたい。どうしてもそれがわからない。なぜ「現物」として必要なのだろう。どうして急に思ったのだろう。これが分かった時、僕は知見のある方々に自費での創作物の作り方を乞おうと思います。

 

送料も僕が負担するので、皆さんの自宅に送らせてください。生き方や勝ち方なんかを説くような話は載せる気もないです。生きにくさを感じている身近な男が苦しむ有様と、世の中からの評価や見え方とのギャップにやられる苦悩をただただまとめる予定です。

 

みんな、苦しい話が好きなのだ。みんな誰かと自分を比べて、優劣を感じてしまう。でも僕が大事だと思っているのは、本人にしかわからない苦しみがたくさんそこにはあるということだ。分かってもほしくない、分かるはずのない複雑な気持ちの絶妙なバランスで僕らは生きている。近付きもしない、近付かれたくもない。

 

暮らし、パートナー、お金、やりがい、比較対象なんてたくさん存在する。比べることなんてよくない。結局相手は身近だ。ブラジルのスラム街の子供と比べたら自分は幸せだ、なんて思う人は会ったことがない。虐待をされている子供より自分はマシだ、なんてない。結局、自分の身の回りと比べるのだ。少し上、少しし下。くだらない、やめよう。1年前や5年前の自分と比較しよう。結局、誰のこともわからない。わかるはずがない。そうであれば、過去の自分と比較しながら、少しでも幸せになろう。過去から1cmでも高く浮上するのだ。這い上がる楽しさを見出すのだ。僕はそれを知っている。むしろ、それだけを知っている。

 

 

 

 

一日一枚

 

一日一枚、追いつけていない音楽業界にしっかりしがみつく為に昔好きだったバンドの新譜のような、聞いたことない/聞けていないアルバムを聴くことを今日からやっていくと決めた。もうすぐ28歳になる。誰もワクワクさせてくれない。誰もドキドキさせてくれない。探さなきゃいけない。周りが悪いんじゃなくて、そういう行為をしなくなった選択をしてしまった自分の所為なのだ。RADWIMPSのアルバムを心待ちにしていたような中学時代の筒井はもういない。いないなら、力技で戻せばいい。年明けまで大体40日。俺は毎日「新しい」を知れる。約束されたアップデート。最高かよ。

いつかの

外も、家の中も寒くなってきた。無駄な忘年会や集まりが増えてくるシーズンで、僕はあまり好きじゃない。年を忘れる会が忘れられない程ストレスな人も世の中にいるのだ。先週金曜日には事業部としての忘年会の連絡が届いていた。また、うんざりした。

 

 

 : 馬の話

 

たまには楽しい話を書く。先日、競馬場に出かけた。どうやら賭け師のプロはパドックというエリアで出走前の馬の顔や毛並み、歩き方を見るらしい。僕は別にどの馬も白か黒か茶くらいしかわからないので、歩く馬をただただ眺めて、どの馬も頑張れという伝わるはずのないエールを馬に送った。ただ、馬の中にも何気ない顔をしてるヤツもいれば、なんだか嫌なことがあったようなヤツもいた。彼らも勝てば称賛され、負け過ぎればきっとレースにも出れなくなる。人と一緒だ。人よりも残酷な世界だ。

 

結果、馬の顔がわからない僕は2千円が3万くらいになって1日の収支をプラスで終えた。お金が実際に機械から出てくるというのはとても気分がいい。こんなに簡単にガールズバー代を稼いでいいのだろうかと思うくらいお金が出てきた。ありがとう、馬。

 

 

 

: 派閥

 

先日、大好きな先輩と飲んだ。筒井さんは誰もが扱いにくいと思うよ、嫉妬されるんだよって結構真面目なトーンで話してくれていた。そして僕はアタッカーであるから、管理する側の人間でもないことも教えてくれた。本当にその通りだと思う。人は図星を突かれると怒ったりするというが、別にそんなことはなかった。会社が大きくなるに連れて、どんどん派閥のようなものができてきた。第一○○部だとか、第二○○部、開発チームやらデザインチームやら、僕が入社した時は20人程度もいなかったのに、今では70-80人くらいいる大きな会社になった。それら第一○○部の中にも色々と仲良しチームがあって、まるで小さな教室のようになっている。僕は(先輩も)その雰囲気が苦手だ。

 

会社は職場であって、同僚や上司は友達ではない。特別な感情(恋愛ではなく友情以上の情けのようなもの)が生まれることで、他人は干渉しにくくなり、新しく入る人はその「色」に敏感になる。染まらなきゃいけないという圧力を感じる。何度も言うけれど、僕はそういうのが凄く嫌いだ。新卒から部長まで誰もが何かしらの派閥に所属しているような状況は、きっといつか何かが壊れる。不満が生まれる。見え方というのはとても大事だ。だからと言って全員に悪態をつくのではない、逆だ。

 

 

:余談 

 

plentyにLaundryという曲がある。こういう曲はもっと世の中にたくさん出ればいい。そう思うだけだ。何かあったことをプラスにしてくれるようなポジティブな曲ではなく、マイナスをゼロに戻すというか、ゼロを掛けてくれるような曲。別に、それによって共感したり、一緒に落ち込んだり、寄り添ったりするとかじゃなくて、もっと抽象的だけれど、何かが肩から下りるような、そんな曲がいい。毎日聞く必要もない。ふと現れて、小一時間で帰っていく性別を持たない話し相手みたいな、分かりにくいな。そんな感じ。とりあえず聞けばいい。明日も憂鬱だけれど、取っ払ってもらおう。ゼロにしてから、また起きる。

 

もう何年も社会人をしているはずだが、慣れないことばかりで、一定期間から成長していない気がする。それでも毎日起きて、点くはずのない気持ちに無理矢理火をくべて、せめて好きな曲でも聴きながら、会社に向かう。会社はつまらなくはない。仕事は50%楽しく、50%が大変だ。飽き性の僕には丁度いい塩梅だけれど、この地球が宇宙でたまたまできるくらい奇跡的な確率の配分を調整するために、日々心を削っている気がする。

 

 

大切なものが大切にできない。鬱病だとか、適応障害だとか、遠い話だと思っていたのに結局半強制的に医師面談になった。人生2度目だ。心は元気だが、最近は体に異常が出ている。そんなことはどうでもよくて、日々の生活の中で大事にしていることを削りながら、調整しているのがキツい。ラインが返せない。遊ぶ約束よりも、その約束をした当日に仕事をしている自分が不安になる。仕事が終わっていないのに、誰かと遊んで土日を無駄にしたくない。終わらなかった時のストレスや不安が異常すぎる。何もかも終わった状態で楽しく飲みたいのに、遊びたいのに、24時間寝てる時以外、不安に襲われている。きっとこれが正しいことじゃないことも知っている。それであれば僕は終わらせることに舵を取ることにした。

 

当分、遊びの約束は立てずにいたい。当日、本当に時間があるという時にだけ遊んでくれる人がいればよい。

 

 

暗い話になったけれど、何かを得るには何かを犠牲にするという話なのかもしれない。僕はまたしても選択を誤って、仕事人間になろうとしている。

 

 

 

 

 

 

距離感

 

特技はと問われると、距離感と答えたい。

 

 

人付き合いだとか、コミュニケーション能力なんて役者としての才能があるだけであって、コミュ力がある人ほど演じることが上手いものだと思っている。僕が営業職をやっているのもそうだ。コミュ力が〜饒舌だ〜じゃなくて、演技に集中しているだけで、実際別にお喋りも好きではないし、興味の無い話に付き合うのも苦手だ。というかそんなことみんな苦手だ。一定以上仲良くするとある程度また距離を置きたくなり、リセットしたくなる。知りすぎたり、知られすぎるのはよくない。知らないから許せることがたくさんあって、いつの間にか知った気になって、許せなくなってくる。嫌われない距離感を18歳になるまでに身をもって学んだ。それ故に、しつこさとか無神経さに対して過敏であり、僕自身がそういう評価を受けたくないと常日頃から思っている。一部にそう思われているかもしれないという不安と常に背合わせで生きている。

 

このまま近づきにくいおじさんになっていくとなると少し悲しい。でも、そういうおじさんも気の許せる仲間と飲んでいる一面もあるのだろう、そうそう、それでいい。付き合うべき人を我々は自分自身で選んでいくべきなのだ。そして取捨選択の「捨」に入れられた場合も、自分を受け入れなきゃいけない。コロナがよかったとは口が裂けても言えないけれど、捨て牌を決める/自分が捨て牌とされるいいタイミングだったのだろう。

 

悪い話をしたいわけではない、逆のことを書きたい。むしろこんな状況を乗り越えても尚、時間を作って、リスクを冒して、少ない休日に遊ぶような友人こそ、自分が選び抜いた一軍の友人なのだろう。知らず知らずのうちに、毎週飲みに誘われていた友人からの連絡が無くなっていたりする。それでよい。そういう人には、記憶の中でたまに筒井が居てくれればいいのだ。

 

 

欲張りすぎず、今日どうしたら自分が幸せになるのか、何が必要なのか、たくさん捨てながら、そんなことを考えて精神的なミニマリストとして生きていきたい。

 

 

 

 

いつか何も無くなった時に、これでもう何も困る気がしない。

10/24 23:41

 

仕事ばかりしていると、カメラロールが白黒になっていく。比喩としての白黒というわけではなく、本当に色味がなくなってくる。業務的なslackのスクショやメール、そんなものだらけになってしまう。それを日曜日の夜23時、今週分を消してあげる。ある一定の楽しかった時期まで写真は遡る。次に更新できるのは来週の土曜だろう。楽しい予定が入っていることは心にとてもいい。今も書いてる最中、一度手を止めて写真の整理をしていた。ムカついた客のメールや、腑に落ちなかった社員のslackを一つ一つ消していく。別にSNSに載せたりもしないし、誰かに送るわけではないけれど、怒りや悲しみを忘れないように、それらを無意味にスクショしておく。それを日曜日に消していく。誰も知らないルーティンがここにはある。

 

 

珍しくこんな時間に布団に入った。

 

とある人から「筒井がそんなに頑張ってるなら、自分もまだ頑張れる。」と言葉をいただいた。素直にポジティブな意味で言ってくれたのだろうけれど、どこか素直に受け止められなくて「底辺を見てればいいよ。」なんてことを言ってしまった。ごめんなさい。人の職業や働き方に上も下もありません。そうやって良くも悪くも誰かと比べるから、苦しくなるだけなんです。たくさんの人が「大変だね。」と言ってくれるけれど、僕には「憐れみ」にしか聞こえないことがある。疲れすぎていると、心まで斜めになるのはよくない。

 

 

もやししか食べれない生活の中で、アフリカの子どもたちはもやしすら食べれないって思っても僕らのお腹は満たされないように、そんな他人事と比較してもきっとだめだ。自分が自分で元気が出るように、誰もいなくても生きていけるように、少しずつ強くなっていくしかない。

 

昔、隆慶一郎の「死ぬことと見つけたり」という本を読んだが、主人公は毎朝死ぬ妄想をして暮らしていた。毎朝、毎朝。そんな気分になれるような現代ではないけれど、僕も何があってもいい意味で諦められる強靭な精神力を目指し続けている。というか、もう何もかもを諦めている。僕はこの先、何も思わないことを目指している。どんな理不尽なことがあっても、本当に心をしっかり殺せれば、不満も無く与えられた責務を遂げられるだろう。

 

久しぶりに、土日が土日じゃなかった。遊ぶ予定も入れられず、ひたすらアニメを垂れ流しながら何時間もPCに齧り付いていたら、20時になっていた。良くも悪くも体があまり丈夫じゃないので、ちゃんと危険信号が出るのはいいことだ。黙々と作業をしながら、いきなり死ぬ未来、あるだろうなと思いながら今日も働いた。社員にも言わず、これは俺が俺を褒めてあげれば満足することなのだ。

 

また明日からも労働者としての毎日が始まる。別に会社が嫌になってるわけでもないが、やることが多すぎるだけなのだ。でもきっとそれはいいことだ。抱えるだけ抱えよう。潰れるまで。