×××× IN MY HEAD

筒井です。夢はお笑い芸人のままです。

Raconteurs

 

遠い昔、それはもう昔々。まだiPhone3GSや、iPodを使っている人が世の中にはたくさんいた。ジョブズも生きていた。そんなスマートフォン黎明期に某サイトでラカンターズを好きな人とやりとりをするようになった。

 

お互い連絡先も何も聞かず、数ヶ月に1回連絡をする。数年空くこともある。特に連絡内容に中身はそれほどもなく、元気でやっているかという旧友のような連絡。何かを境に連絡は無くなり、数年が経った気がする。

 

 

たまたま朝、当時からは進化したiPhoneApple Musicからラカンターズが流れた。そういえば何しているんだろうと思うも、何も知らない。連絡先どころか、名前もあまり覚えていない。なんと失礼なことか。元気でやっているだろうか。当時20歳そこらだったような俺らも28〜29歳になり、人生が変わるような何かが起きてはいないだろうか。こんなブログを見ているはずもなく、こうして友人になるべく人をタイミングで失うんだなと思わされた朝でした。

 

 

2019のラカンターズのライブ、行けばよかったと今も後悔している話をしたい。

忘憂

 

 

「やばいかもしれない。」

 

何万回と思ってきたけれど、相変わらず何かあるとハラハラしてしまう。嬉しいことや楽しいことは慣れてくるのに、不思議だ。

 

 

今日は初めてちゃんと「仕事辞めたいな。」と考えた。

 

考えたというか、憂いた。そう、これは憂い。今年も僕には花粉症は来なかったけれど早すぎる五月病が肩を掠めてきた。そのまま覆いかぶさってきた。久々にその空気に包まれすぎて、隣に座る中途の後輩から「筒井さんが忙しいと、チームの空気が全然違いますね。」と言われてしまった。この子は優しいから余計なことは何も言わなかったけれど、きっと「話しかけにくいから、ピリピリすんなよ。」って言いたかったんだと思う。心から申し訳ない。僕のチームだけはそんな空気になりたくない。そういう人を新卒の頃から、前職の頃から、たくさん見てきた。

 

 

「今、俺機嫌悪いから構うなよ?」

 

みたいなダサいオーラ出してる人。それよりずっと「OKいつでも話してこいよブラザー✌︎」って方がきっと仕事は捗る、僕の仕事は進まなくても、周りがそれで溌剌と働けるのであればそれが僕の仕事でもある。

 

そんな後輩の話を聞いて、明日からもヘラヘラして、飄々といつも通りでいなきゃいけないと、反省をした。帰り道も楽しい話ができた。帰ってきて一缶だけハイボールを飲んだ。もう今日起きた大事件のことは忘れた。飲まなくても、忘れていたかもしれない。

 

 

自分の機嫌なんて、誰も直してくれない。誰も興味ない。ご機嫌な時ほど誰も気にせず、胸糞悪い時だけ周りはマイナスな評価をする。そんなもんなのだ。もっともっと、もっと、かっこいい大人になっていこう。

 

 

中国語で「忘憂」は「酒」を意味する。

 

なんて粋な意訳だろう。

僕も粋な男でいれるよう、斜めなりに明日も頑張ります。

もう昨日のことは忘れた。

8年目

 

気づけばブログが8年目を迎えた。

 

 

 

身の毛もよだつような記事がたくさんある。紛れもなくここには20歳からの筒井がいるし、何なら筒井しかいない。

 

 

読者機能なんて言うアテにならない誰が見てるかもわからないシステムが最高だ。一方的にメールマガジンを配信しているような感覚に陥る。必要な時に必要な人が見てくれればそれでいい。

 

 

どれだけ卑屈になってしまっても、生活を諦めることはない。心臓は動き続けるし、酸素を送り続ける。そうであるならば、今日も少しだけ楽しくいよう。気持ち悪いことを書くけれど、僕もあなたも多分そんなに毎日楽しく幸せに過ごせるタイプではない。鬱屈とした毎日に嫌気が刺したり、ふと自分が本当に孤独なんじゃないかと、自分だけが特殊なのでは?と嫌悪感に苛まれることもあるだろう。違う。皆それらを少なからず抱きながらも生活を諦められないのだ。同じような人がここにいる。生きるしかないのであれば、粉々になるような日があっても、それでも笑っていたい。

 

 

いい金曜日にしよう、いい土日に向けて。

 

浮浪者みたいになった髪の毛を明日は切る。

なんでもないを信じる

 

「なんでもない」

 

 

 

一言一言に、余計な詮索を始めたのはいつだろうか。「大丈夫」と言われれば「きっと大丈夫じゃない。」と思い、「なんでもない」と言われれば「何かある。」と勘繰る。きっと小学一年生の頃はそんなこと思わずに、もっと素直なはずだった。そう、もっと素直。

 

 

鈍いと言われても、何考えているかわからないと言われても、月並みな言葉で言う「大事な人」からの「大丈夫」は信用しないと失礼なんだなと最近学んだ。僕らは考えたり、勘繰ることに深入りしすぎてしまって、相手に対して失礼なことをしているのではないか?

 

なぜ信用すべき人の言葉すらも疑って、誰が得をするのだろう。それをそのまま呑み込んでみることが、相手へのリスペクトであり、愛なのではないか。例え相手が同性だとしても、そこにあるのは愛情だと思う。そこに性別の垣根は無い。

 

僕らはどんどん人を信用しなくなる。裏切られた経験なんて数えてみたらそんなに多くもない。信用された回数より、裏切りが多いなんてそんなことないでしょ?

 

でも、それらが大きくトラウマになっていたり、どこかで引っかかっているからこそ、本当に必要な言葉を信じられなくなったりしている。とっても情けない。むしろ僕らには言葉しかないのだから、それを疑って、誰が幸せになろうか。

 

お世辞や気分を良くするだけの言葉も世の中にはたくさんあるけれど、それでも僕らは一生「言葉」を信じていくのだろう。言葉に振り回され、傷つき、それでも信じるのは言葉なのであれば、まずは僕から馬鹿正直にそれらを面と向かって信じてみようではないか。

 

 

まだまだ僕はアップデートを続けていきたい。凝り固まりたくない。頑固だ何だと言われるけれど、崩していく気概はある。

 

信用される前にもう信じているような、先出しで心の中に滑り込むような大人でいたい。もう変わらないかもしれないけれど。

8マス理論

 

 

 

「誰かの一番になりたい?」

 

 

 

 

そんな話を会社の人としていた。どうだろう。

 

 

昔から、2番手3番手、いや7番手くらいの人生だった。決してクラスの中でもスターにはなれないけれど、スターの隣には何故か僕がいれたような気がする。人気者の輪の中にはいる。やはりでも中心ではなく、僕に誰かが集まっているわけではなかった。けれどもそこに不満は無かった。気にしたこともなかったかもしれない。僕はスターになれないことを悟っていたし、そういう星の下に生まれていなかったのも知っていた。諦めていた。

 

スポーツでチームを決める時に取りっこをするが、凄く嫌いだった。必要とされていないのを目の前で感じていた。必要とされなくても、選ばれたいという気持ちは誰にでもある。

 

けれども誰かに一番として選ばれたい欲求が生まれたかというとそうではない。きっと自分を納得させる為に「みんなの一番になれなくても、8番以内には入りたい。」みたいな防御策が生まれた。

 

 

何が8番なのかというと、ストラックアウトのパネルのような(3×3の)9マスがあるとする。

残り8枚を自分の友人や恋人で埋めていくという話。

 

 

誰かにとっての一番になれなくても、その人の8枚の中には入っていたい。それが面白い枠でも、先輩枠でもいい。誰かの一番になりたいなんて、独りよがりすぎではないだろうか。贅沢なのではないだろうか。でも8枠の中に入るなら、それならなんとかなるかもしれない。そういう立ち回りを続けていたい。

 

 

自分を中心(5番)とした時、左上(1番)から一体誰をどこに置くだろう。不動の4番、6番がいるかもしれないし、今この瞬間だけ1番に入り込む人がいるかもしれない。それでいいと思う。俺は誰かにとって不動の7番あたりでいたい。まあこれも、贅沢すぎる話。

 

 

プール

 

色々あって死ぬほど貯金が減った。30歳手前でこんな貯金残高でいいのだろうか?と思うけれど、東京でストレス無く暮らすってこういうことだとも思う。貯金は悪でもある。お金は不思議だ。毎日会社に行くだけでお金は入ってくるのに、なぜ我々はこんなに苦労して、すり減らして、働くのだろう。どうして中途半端ではなく、とってつけたような責任を自分の役目だと言い聞かせて、頑張れるのだろうか。ほわほわと眠気に襲われながら、この後僕は布団から這い出てPCを立ち上げるのであろう。

 

 

また、いやまだ、変わらない日は続く。

 

 

たまにめちゃくちゃ歪んでる自分に気がつく時がある。気が付かせてもらうことがある。もうこんな歳になると、間違っているかどうかも疑わない自分がいる。

 

 

今から働くことも、きっと間違っている。また勘違いをしながら、心を擦り減らして今日も働く。明日も続く。

判断

 

2択では無くても、選ばなくてはいけないことが増えた。どちらを選んでも何が正しいわけでもなく、選んだ方向を正しいと思わなければならないことが増えたのだ。プライベートの話だけではない、仕事もそうだ。納得が大事。

 

 

忙殺される中で、たくさん見落としてきた。あるはずの無い選択に迫られたり、選択すべきを諦めたり、まるで人生もタスクまみれの仕事のようだ。思考していいのだろうか。思考を止めて、ただ片付けることに夢中になる僕の判断は間違いだったのだろうか。誰も教えてくれない。

 

 

10年に1回あるかないくらいの勢いで、普段の自己肯定感や尊厳が消えた。今日、もう本当に消えてしまおうかと思うくらい、死のうと思うくらい。何も誰にも言えないけれど、少し助けてほしい。

 

メッキが剥がれた今、俺は誰に何を頼ればいいのだろうか。

強くいることだけが僕である意味で、もう何もない。