×××× IN MY HEAD

筒井です。夢はお笑い芸人のままです。

廃課金

 

 

「クソッ…クリアできない…。」そんな時は1個¥110の課金アイテムをチャージする。それなりに敵が楽に倒せたり、ヒントを貰えたり、通常プレイでは手に入らない便利なアイテムが手に入る。買うかどうか悩む絶妙な金額は使う毎に感覚が麻痺してくるが、それでも僕らは惜しみなくお金を投下する。

 

「クソッ…洗濯も掃除もやる気が出ない…」そんな時は1個¥500くらいの柔軟剤を買ったり、何だか便利そうな掃除グッズを買ってみる。それなりにいい匂いになり、楽に掃除ができたり、掃除をするという目的が「使ってみたい」という欲求に勝てず、自ずと掃除を始める。買うかどうか悩む絶妙な金額は使う毎に感覚が麻痺してくるが、それでもやる気を出してくれるアイテムとして、惜しみなくお金を投下する。

 

 

何につけても、僕らは理由が必要なのだ。

 

そして時にはやる気を出す為のアイテムを探さないとクリアできないことがある。嫌な飲み会があるなら、事前に外に出たくなる(見せたくなる)服や装飾品でも買えばいい。仕事が嫌なら、終わってから楽しめる何かを事前に購入したり、約束を取り付けておけばいい。目の前の事象に常に素のままで当たっていても、負けが嵩むだけで参ってしまうから。

ありもしない先に

 

仕事初めから2日が経って、なぜ年末あれだけ踏ん張れたのかをどうにかして思い出そうとしている。今も体からやる気がズルズルと抜け落ちている。塞ぎようのない穴が空いていた。もう頑張らなくてもいいんじゃないかと思っている。反面、まだまだこんなもんじゃないという気持ち。相反する。少し何かが満たされてしまったのだろうか。妄想にお腹を膨らませているだけで、事実何も得ていないのではないか。完璧になりたい。今年、本当にちゃんと潰れる予感がしている。予感がしていれば予防すればいい話なのだ。答えもわかっているはずなのに、なかなか進めない。もっと、もっと上手に生活をしようと思う。もしかすると、目指していた大人になれてしまったのかもしれない。完璧主義で、会社に必要とされて、ある程度稼いで、適当に遊んで。やっぱり探さないといけない。働く意味だとか、今日を楽しむ術をちゃんと探す。ありもしないと思うけれど、探すことに意味があると暗示をかけながら、今日も眠ります。お疲れさまでした。大丈夫です、自称天才なので。はい。

2022年の足取り

「2022年」

 

 

 

目標は今のところ何もない。

 

 

今更、何かを始める気力も無く、新しい自分に生まれ変わることもできない年齢になってしまった。(なれる年齢ではあっても、僕にはもう無理だ。)もうここまで来てしまったのなら、昨年の自分を盛大に褒めてあげながら15%くらい成長できればそれでいい。誰かにとっての何になろうとか、何か立派なコトを成し遂げるなんてどうでもいい。去年の僕が最高だったので、それを準えるだけだ。

 

また頻繁にブログを更新できない日が来る。水道料金が払えなかったり、役所の手続きや、ゴミ出しができなくなる。肉体と心から「余裕」だけが吸い取られる毎日が明日から始まる。見えない妄想のプレッシャーは紙やすりのように心を擦り減らしながら、それでもどうにかして浮き沈みする「人間らしさ」みたいなものに周りを巻き込み、迷惑をかけながらもまた自分で自分を鼓舞して、全く2021年と変わらず生きることができれば、その先にあるのは昨年同様「最高」なのだ。その覚悟がある2022年と、それが無いまま迎えた2021年はもしかしすると少し違うのかもしれない。

 

 

ここ2年くらい「多様性」みたいな言葉がめちゃくちゃ蔓延した。それはジェンダー的な話だけではなくても、何もかもを受け入れていこうという姿勢みたいな、なんかそういう「流行り」がきた。そうでしょ?今年はもっと日本中が「生き方」みたいなものにフォーカスされる年になると思う。それは別に働き方とか、子育てとか、とても多岐に渡っていて、それでいて何が正しいではなくて、どれも正しいから皆選べば?というモデルケースのような人が山のように出てきて、我々はそのモデルからある程度の方向を選択せざるを得なくなる。一方、俺らは「他人に期待するな」なんて生き方をどこか生きていく中で刷り込まれたりもして、自分の力で生きていける人こそが世の中での勝者かのように持て囃される。果たして、俺らはどう、何を目的として生きていけばいいのか。どこに向かえばいいのか。そもそも生き方の目標って必要なのか。個人的に、2022年はそんなものを少し見つけられたらと思う。俺は賢くも無いし、誰もが納得する世界の真理(人が生まれて持つべき目的)はわからないけれど、自分の目的の手がかりくらいは見つけられたら御の字だ。

 

Creepy Nuts / のびしろ【MV】 - YouTube

 

 

このあと更に書いていたのですが、長すぎて全部今消しました。ウケる。『のびしろ』感じながら今年も筒井をよろしくお願いします。

 

去年より面白く、賢く、八方美人でやっていきます。アプデを続ける僕に乞うご期待くださいませ。そしてもっと、飲みに行こう。

 

 

 

バスの真ん中

 

 

仕事が本当に終わった。

 

 

文は長くなる。

 

 

 

凄まじい一年だった。27歳、初の課長。後輩ではなく、初の部下。初のチーム。上場に向けた勝負の年。私をこの会社に誘った人は当時から取締役だったが、更に雲の上の存在になった。同時期に入社した人でも、役職の有無によって見えるような区別をされ、私の残業代は出なくなった。日々厳しくなる会社としてのルール。全体の労働時間の調整、残業時間の管理、評価制度の明瞭化、与えられる使命と責任。それぞれがそれぞれの場所で会社の為に働き、少しでも思い描く理想の未来に向けて、奔走していた。誰にも理解されず、誰の気持ちも理解できない苦労が一人一人の社員に内にあったんだろうなと思う。何人もの人が言いかけた愚痴を呑み込んだのだろうか。そして僕は何度、無意識に呑み込ませてしまう側に回ってしまったのだろうか。

 

 

いつからか、成り上がるような筋書きが好きだった。逆境やドン底からいかにして生還するかという途方もないストーリーが好きで、思い返せば今年は物凄く長いドン底が続いていた。時折見せる幸せはお客さんからの発注連絡であったけれど、それすらも重なれば重なるほどプライベートは犠牲になった。仕事としての幸せを得る為に、私は私生活を対価として支払った。

 

 

 

土日が片方もない日が7月くらいからスタートしていた気がする。遊んでいても「明日仕事だから…」という思いが強く、日曜に予定を入れることがなくなった。誰かの為に時間を割くことがストレスで、本当は会いたい人とも遊ばない日もあった。仕事をしている自分をどうにかして好きにならないと、おかしくなりそうな日がたくさんあった。もはや、誰かと楽しむなんて余裕があるなら、目の前の仕事を終わらせたかった。こんなはずがないと思いながら、絶対に報われると思いながら毎週を過ごした。そう言い聞かせていた。社会は怖い。誰の褒め言葉も慰めも治療にはならなかった。少し人として大事なものが壊れてしまった気がする。それらはもう二度と、戻る気がしない。そして何も知らない人たちにこう言われるのだ。「変わったね。」と。変わらざるを得なかった者の苦労も知らずに。

 

 

でも、別にそれでいい。

 

いつのまにか自室で迎えるはずの明日を会社で一人迎える日が続いていたけれど、それでもこれでいい。帰宅してたった2時間くらいの寝るまでの時間にゲームをして、休日の晩ごはんにピザを作ったり、少しいい酒を飲んで、無くなりかけているプライベートをいかに保てるか、いかに心に優しく、笑えるかどうかに限られた時間をベットしてきた。終わらない変わらない(ように感じる)日常に正気でいる為に、例えそれが30分でも、楽しいことをしなきゃいけない。笑いこそ、僕の反骨精神のダイナモなのだ。めちゃくちゃ笑って、めちゃくちゃ働けば、全て解決なのだ。これが課長初年度、ようやく今日分かった「正気の保ち方」であるとここに書く。

「泥の中で砂金を探す。」

 

 

「不安は妄想だ。」

 

 

僕が会社で「一緒にブログ始めません?」と話した先輩がLINEで送ってきた文章を一切の加工無しで貼り付けます。

 

 

報われない努力、いや努力は報われる。正直、どちらでもいい。努力は後悔しない為にするだけであって、妥協を許さない人間にのみ持つことを許されたプライドを兼ね備えた武器だ。努力をせずに何かに失敗して、怒られてもケロッとしてるやつはいる。手を抜くのが上手いヤツもいる。

 

 

プライドが高く、能力が伴わない私に残されたカードは「踏ん張る」しかなかった。それでも不安や見えない恐怖みたいなネガティブな(何か得体の知れない)ものに心がやられかける度、俺はきっとこの先輩と「不安は妄想だ。」ということを思い出すのだろう。

 

以下、転載。

 

 

毎分32300リットル(ドラム缶にして23缶分)湧き出る草津温泉ぐらい、わたしの心の源泉からは負の感情が湧き出てくる。もう観光地として成り立つんじゃないか、ってレベルで。

そんな毎日をかれこれ数ヶ月過ごしてきた。
そんなわたしにブッダは言った。
昨夜、布団の中で、唐突に、核心的に。

「いや、不安はぜんぶ妄想だよ」

宗教の話では一切ない。この一言に心底救われたという話。

これまで自分の行動を抑制したり、暗い気持ちにしたり、自己肯定感を下げていた正体は紛れもなくこの「妄想」だ。

人から直接悪口を言われたわけでもなく、噂話を聞いたわけでもない、ただ自分が勝手に仮説立てて「きっとこうだからこうだろう」と決め込んで、しまいにはそれをリアルだと信じ込んで負のスパイラルに飲み込まれていく。

その都度、負の感情を重ね着していく。苦しくて脱ぎたいのに、気づけばまた1枚羽織ってる。そんな毎日にいい加減、心がぶっ壊れそうだった。

執着心を捨てたい。
モヤモヤを解き放ちたい。

色んな記事を読んで、人に相談して、辿り着いた一つの答えが「文字を書くこと」
書いてる本人があまりの恥ずかしさに目を覆いたくなるほど自分の気持ちを包み隠さず書き殴っていく。

おらおらおらおら、言葉のサンドバッグ。書いて書いて殴って殴って殴り疲れた頃にはわりとスッキリしている。

それでも耐え難い夜はやってくる。自分の存在を消してしまいたくなるような日は、空腹と寒い夜に特にやってくる。

今回はさすがにダメかもしれない。
カチコチに冷えたアジフライを齧りながらシャットダウンのボタンに手を伸ばす。しかし寸前のところでふと気付く。

負の感情の根源は、
すべて「自信のなさ」なんじゃないの?

もしわたしに自信があったなら
勝手にすればって心から思えたのかな

もしわたしに自信があったなら
バカな選択したねって言えたのかな

なんてあるある共感ソングのAメロをすぐに作詞できたぐらい、この説は確信めいているように感じた。

人間関係、お金、仕事、将来に至るすべてにおいて、揺るぎない自信があれば、何が起きても動じない自分を手に入れられるのでないか。

自信こそ、この旅の最終章だったのか。いやぁよかったよかった、と気持ちを撫で下ろしたのも束の間、

「じゃあどうやって、その自信を手に入れるのよ」という嫁の一言ですぐに振り出しに戻る。振り出しに戻ってばかりの人生。

その通りだ。そもそもその自信をどうやっても手に入れられなくて、今こうしているというのに。

そして話は冒頭に戻る。ブッダの一言。

「不安はぜんぶ妄想だよ」

頭で考えることはぜんぶあなたの妄想。考えても無駄だよ。無駄っていうか、それ起こった?起こってないじゃん?起こってないことに疲弊してるの?

ブッダは続ける。

「ちなみに自信も妄想だよ」

自信って目に見えないじゃん。目に見えない妄想に対して、目に見えない自信で重ね着しようとするのはアホじゃん。

ブッダ超すげえ
そりゃ2000年続くコンテンツだ。
てか、2000年前にこの問題って解決してんだ。

ブッダの言う通りわたしの毎日は妄想に溢れてる。

あの人はこんなことを考えている
この人にこんな風に思われている
これをして周りからこんな風に思すわれたら嫌だな

起こりもしない出来事に、毎回心をすり減らしていた。

「妄想から抜ける」

妄想から抜けると、行動するしかなくなる、行動したことで、得られる「目と耳で得た実感」こそが全てであり真実である。

心がすーっとした夜だった。

年末の引力

 

いつから年末気分になれるかな。

 

 

年末が近づき、二日酔いで目を覚ますところから遅れたスタートを切る。きっと時間は13時過ぎ。最近買ったマットレスのお陰で余計に深く眠っているはず。「そろそろ今年の仕事終わるんじゃないかな?」「忘年会続きで肝臓が持たない。」「財布に常時お金が入っていない。」「カラオケで喉壊した。」今年もこれら気持ちを抱きながらヌルッと来年に突入して、有難いことに予定はどんどん埋まっていくのだろう。それでも矛盾するけれど年々、歳を重ねる毎に予定は無くなっていく。みんな新しい家族がいたり、より大切な人と過ごすのだ。社会から出遅れたというか、取り残されたような気持ちはあるけれど、仕事から解放されるのであればなんでもいい。また最近仕事が忙しくなって、もうそれしか考えたくなくなっている。

 

頭の中にもメモリがある。稼働量が増えれば負担も増え、当然ながら送れていた日常生活が送れなくなる。ゴミ出しや洗い物、掃除や市役所の手続きだとか。思えば常に何も手につかない日が続いていて、土日でそれらをリセットして、また余裕が無くなる日が増えた。お陰で平日の部屋がめちゃくちゃ汚い。だからと言ってストレス発散を何かでするわけでもなく、排泄するがの如く必要なものだけを吸収し、外へ出していく。ストレス発散ということを見つけられないまま28歳になった僕は、黙ってどこかに流すしかない。家でゆっくりゲームでもしていれば、またリセットされるのだ。

 

 

 

パッと数えただけで、あと10営業日の中で提案資料は6件も溜まっていた。急に来やがった。嬉しいことだ。しかし、そろそろきっと取捨選択を迫られる。会社にとって必要な案件と、取ることが無駄な案件。今までは何もなかった。来るもの拒まずでやってきたけれど、いよいよ精査する時期なのかもしれない。売上が足りない状況で精査なんてしてよいのだろうか。ずっと僕は疑問に思っているが、上がそう言うのであれば仕方ない。

 

 

 

疑問や懸念、不信感はできる限り押し潰す。

何が必要で、何が不要かなんて考えることもない。

全て取り切ればよいのだ。

 

仮定の過程

 

今年はどんな年でしたか。

 

 

年末頃になると皆が考え出す。本当に嫌だったことはこうでもしなきゃ思い出せないくらい記憶の奥底に埋まっていて、バカ笑いしたことならすぐに思い出せたりする。少なくとも僕はそう。生きるには便利な頭をしている。

 

今年会ったのに一回飲みに行ったきりの人もいれば、今年からたくさん遊ぶようになった人もいるし、巷で言うように人生は本当に出会いと別れの連続だと感じることが増えた。そこに一喜一憂しなくなることも、歳をとったという証拠なのかもしれない。

 

嫌なことがたくさんあった。思い通りにならないことばかりだったし、顔色もたくさん伺った。どう生きて、誰を信じるかも悩んだし、何度も判断を間違えた。忘れちゃいけないことを忘れて、忘れてもいいことを引きずった。選択肢はたくさんあった中で、選んできた結果の今なのだ。

 

細かい振り返りはまたの機会としても、今が良ければ選択肢は間違っていなかったと思える。でも明日はまた新しい何かに後悔しているかもしれない。でもいつかいい日がくる。どれだけなにかを間違えたり、後悔をしても、いい日がくればそれらの選択肢は結果として正しかったことになる。僕らは証明問題の仮定をひたすら作り続けている。間違った定理を使っていても、答えがあっていればよいのだ。むしろどれだけ間違えても答えがあっていれば、それで正解なのだ。

 

 

証明問題の回答をする際「仮定より」と書いた覚えがある。

 

 

数々の仮定の過程を踏んで、2021年に選んできた全てが間違ってなかったと自分を肯定しよう。僕だけではなく、誰も間違っていない。間違えた時は、答えを出すタイミングが悪かっただけなのだ。間違えたのであればそれも一つの過程だと思えばよい。正解が出るまで解き続けるのだ。仮定であり、過程なのだから。

 

 

どこまでも、強情でいたい。

来年はもっと、強くありたい。