×××× IN MY HEAD

筒井です。夢はお笑い芸人のままです。

タイパとコスパ

タイパは、タイムパフォーマンス。

コスパは、コストパフォーマンス。

 

前もこんな話を書いた。

 

あくせくと毎日働き、TikTokInstagramでショート動画を見漁り、少しでも手軽に情報を得ようとする我々はそんなに浮いた時間で何がしたいのだろうか。何をするにも安い方へ手軽な方へ、無料でより良い物へと時間を使い、そこまでして節約をして何を買うのだろう。大人になっていく中で、無駄に対する警戒心が強くなってしまったが故に効率化だけを求めるようになった。というよりかは、効率化の世の中に流されてしまい、元より存在するマイペースさが壊された。いや、自ら壊してしまった。

 

手軽に情報が取れるようになった今、作りたいご飯があれば30秒もあればレシピに辿り着ける。見たい景色は10秒あれば出てくる。映画の結末、音楽、何にしても1分以内には結末に辿り着けることで本来得られる幸せを失いかけている。

 

気になった居酒屋に入る前に食べログInstagramを開き、評価が2.5点だった。口コミがあまりよくなった時点で我々は入るのを躊躇う。

 

そうじゃない日があるべきだ。

 

サブスクで飛ばしながら聴くのではなく、アルバムを買って面倒ながらPCに入れて聴いてみたり、雑誌を買って何か得たい知識を得てみたり、感性に従ってお店に入ってみたり、本来僕らは誰かの評価や、手軽な情報に惑わされず生きていたはずなのに、いつの間にか名前も顔も知らない口コミや"投稿"に左右されて、本心を捨てている。

 

やめよう。無駄なものをたくさん増やして、経験して、後悔して、自分の感性を殺さずに生きていこう。

 

そう書くことで、自分に言い聞かせている。

 

コスパ・タイパ、そんなもの、自分の好きなことにはいらないのだ。

フジファブリック

 

フジファブリックを久々に聴いた。

 

 

高校の頃、俺のiTunes再生ランキング上位はずっとフジファブリックだった。当時はiPod classicが音楽好きのマストバイだった。容量こそ正義。LastFMもしっかり同期させて、俺はあの数万人もいない田舎の中の田舎という地元で一番音楽を聴いている男の子だという謎の自負を持っていた。そういう「虚勢」みたいなものが俺のエネルギーだったんだよね。笑っちゃうけれど。

 

 

FoZZtoneとplenty、そしてスーパーカーが上位にいたけれど、やはり当時はフジファブリックだった。志村に憧れて同じようなTシャツを買ったり、似合う訳もないハットを被ったり、フレッドペリーのカーディガンを買った。あの頃、俺は16歳くらいだった。その頃、志村はもうロックスターだった。

 

そんな俺も志村が亡くなった年齢になった。そしてまた志村の進まない誕生日が今日も訪れた。生きていたら志村は何歳なんだろうね。そんなこともすぐ出てこないけれどきっと40歳過ぎなんだろう。そう、43歳かな。あの頃29歳だった人が43歳になるほど時間が経った。「時が経ったら何かが変わるかな」と歌っていたあの頃からそんな経ち、時が経てば何もかも変わることを知った。実際、変わらないものはあんまり無かった。ボロボロになりながら、変わらないものを守ろうと抱き締めながら背中を向けていることが増えた。これでいいんだと、自分を信じる術を覚えた。あらゆる状況で立ち回る力を得た。何もかも望んだ訳ではなく、そうしなきゃ生きていけないくらい辛いことから自分を守る為に勝手に身についた。僕だけじゃなく、みんなそうやって大人になった。

 

 

 

やりきれないことばかりだし、いつだって不満ばかりだけれど、数少ない幸せをしっかり噛み締められるようになった。

 

 

 

もうあの頃には戻れないと思いながら、みんな昔を振り返って英気を養うらしい。前や上を見ながら進める人なんてごく僅かなんだから、下を見ながら、振り返りながら、半歩でも進む。どうしようもない毎日にフジファブリックが流れると、あの頃が蘇って、また頑張れる。志村が止まっていることが決していいことではないけれど、まあそれもそれでよかったのかなって自分を納得させる。いつ聴いても志村は29歳。俺は16歳に戻れる。それでいい。唯一無二だ。遠くで雷が鳴っている。

 

‎フジファブリックの"星降る夜になったら"をApple Musicで

 

 

極端に灰色

 

SNSに疲れる人間ではなかったが、最近Twitterがヒドい。何が酷いかというと、やれ多様性だやれ増税だ、統一教会だ、LGBTQだ。それに利用者の高齢化が進んでいる。相まって発言力を持ち、自我の強いモンスターが暴れ回っている。まるでモンハン。

 

正直俺がTwitterを通して得たい情報は「道に猫がいた。」とか「あのバンドが再結成した。」というもっと脳死で情報を濾過できるような事象であって、ちょっとあなたも立ち止まって考えてみようみたいなコンテンツに使ってるキャパシティは無い。

 

事実、俺は上記コンテンツに興味が無い。こんなことも書きにくい世の中になってしまったけれど、無理に何かを知ろうとする程俺の知識欲は飢えていない。興味がある人が話せばいい。突き放してるだとか、理解しようとしていないのではなく、興味が無いのはどうしようもない。今からAKB48を全員覚えるのと一緒。

 

そういうことを考えるのが間違っているという話ではなく、単純にそういう話をTwitterに求めていない。ただそれだけのこと。知らず知らずのうちにTwitterの過激さに侵され、流れてくる偏った情報に賛同し、自分の信念に類似する内容のみを鵜呑みにする怪物になっていく人がたくさんいる。あれだけ僕ら世代くらいからwikipediaを出典にしてはいけないと大学時代に教わったはずなのに、なぜ余計不確かなTwitterの口コミなんかを信じ込むのか。信用はそんなに安くない。容易くもない。

 

流れるTLの9割をジョークだと思えば、もっと楽しく使えるのにね。

 

俺は毎日めちゃくちゃ笑っていたい、笑わせていたいし、笑っていたい。

 

 

八月 - YouTube

tu'

 

大人になろうと思って努力をしたことはありますかね

 

俺はね、今しているところ。

 

 

 

 

無理してお酒を飲んだり、タバコを吸ったり、悪そうな人と絡んでみたり、難しい音楽を無理矢理聴いて理解しようとしたり、学生の頃に感じる「カッコつけること」と「大人になること」は少し似ていた。あの感情って本当に大事だった。勿論まともな学生を送ってきたことが一番素晴らしいことだ。ただ、中には背伸びが必要だった人もいるんよな。

 

高校の頃、友達と自転車でどこまでもいける気がしていた。

 

事実今ではやる気も起きないような距離に行っては、ドンキホーテに予定も無く入り、何も買わずに帰っていた。なんとなく悪さをしているような、凄いことをしたようなそんな気分になれていた。そんな自転車の冒険中にね、千葉県の東金あたりを走っている頃かな、ジブリの話になったことを今でも思い出す。俺以外の2人はジブリマスターだった。人一倍好きだったのだろうけれど、俺はナウシカもののけ姫ラピュタを観た記憶もなく、ただただ話についていけず、オススメをされて終わった。それとディズニーも。

 

 

当時、「そんなジブリなんて…」とバカにするとかでもなく本当に興味もなかった俺はそのまま大人になった。

 

最近ようやく俺は気づいた。

世の中は案外、ジブリやディズニーが共通言語になっていることに。

 

それだけじゃない、ハリーポッターやワンピース、花より団子や鬼滅の刃けいおん!あらゆるエンタメが人と人を繋ぐ言語になっていた。特に今の会社は平均年齢も27〜29歳と若く、そんな話になると俺は浮く。当時、何をしていたのだろう。俺だってBUMP OF CHICKENRADWIMPSも聴いてきたが、どうやら音楽だけ共通言語が無いらしい。「天体観測」「ふたりごと」この辺を知っていればいいものの、ラピュタはそうもいかない。ラピュタを観ており、ある程度の流れを知っていることが「踏み絵」なんだよな。わかるよ。ただ飛行石ってなんだよ。わからないけど。

 

 

そしてこれら観てないことに加えてこの中身(精神)故に「俺、今も皆と違うんだぜ。」と思われがちである。違う違う。もう俺も少しだけおじさんになり、そんな時代は過ぎたんだよ。それは20歳の俺であって、俺も同じ言語で話したい。とも言えない。磨き続けてきたトゲみたいなものが邪魔して、上手く話せない。

 

 

だから俺は今、努力をしてコンテンツを消費している。

 

ワイルドスピードジュラシックパークを観た。ワンピースも少しずつ読み始めて、「ぼざろ」も観た。この間梨泰院クラスも観た。俺は今、時代を逆行して、あの頃触れていなかったトレンドを探している。

 

大人に憧れていた結果、色々拾うべきものが拾えていなかった。

 

 

だから今年は‥と思ったけれど、果たしてこれが大人なのか。でも周りの大人は皆それらを一般教養として蓄えている。それなら俺も大人になろうと、踏み出したのが今年ってわけだ。

誰のせい

他責は無い。

 

 

ただ起きて、電車に揺られて出勤する人のモチベーションって何だろうね。新卒からそんなことを思い始めてもう8年も経った。

 

8年経つけれど、何の為に働いてるかの結論が無い。ただ生きる為に働いている。仕事だから。選んだから。誰のせいにもできない。友達、恋人、学校、好きなもの、好きなバンド、自分で選んできた結果が今日に辿り着いている。思えば長所が何も見当たらない人生だった。スポーツや勉強も、顔やセンス、ユーモア、ゲームの実力すら全て平均より劣っている自覚と共に生きていた結果、人の3倍くらい働くことに俺の価値と居場所を見つけた。自信がつくんだよなあと思う。大丈夫、俺は俺の中にある平均点より頑張ってるからと。

 

 

だから不満は言えない。辞めようと思えばいつでも辞められる。仕事を辞めた翌日に死んだ人なんていないし、当たり前に会社も潰れない。それでも続ける意味を探して今日も一日を終えた。生きないとな、と思う。

 

12年目

今年くらいは集まりたいね。

 

 

 

大学1年目に祖母の家で暮らし始めた俺は高校時代の友達3人+野口という合計5人で毎週遊んでいた。野口はそのうち2人と中学が一緒だったりして、何の違和感もなかった。強いて言うなら何故高校時代に会わず、18歳で5人が集まったのかという点だけれど、きっとスマホが普及していなかったり、村社会みたいな狭いコミュニティがそうさせていたのかもしれない。

 

 

それから毎年年末はカウントダウンジャパンに行き、暇があれば集まる毎日が何年も続いた。バラバラで遊んでいたはずが、気づけば俺の家にいて、好き好きに帰って行ったことなんて腐る程ある。そして各々のタイミングで社会に出たが、結局何も変わらなかった。結婚や子供が産まれるハッピーな話はありつつも、距離は変わらず、遊ぶ頻度は減ったけれど誰1人関係を疎かにしないまま今日を迎えた。

 

 

そのうち1人が今日誕生日ということもあり、LINEグループが動き出すとそこは12年前だった。誰も話を聞かない。内輪でしか笑えないネタの応酬。12年前と何も変わらない。

 

そういえばこの数年、コロナで集まれない日が続いていた。そんな気はしなかったけれど、我々が5人で遊んだのはもう3年ほど前となり、誰かがいれば誰かが欠けていた。ようやく「今年くらいは集まりたいね。」と1人が切り出したのをきっかけに話はトントンと進み、GWに地元を巡る謎の日帰り旅行が予定された。板橋のスポッチャに行くという縁もゆかりも無い話が飛び出たが、予定に入っているのだろうか。

 

 

毎日毎日働いて、仕事まみれになっても、いいのか悪いのかは別として12年前に戻るグループがあるのは有り難い。心から感謝してる。そして来年もまた集まりてえなあ。と、もう考えている。今年も死ぬほど笑えるのは約束されているから。