「不安は妄想だ。」
僕が会社で「一緒にブログ始めません?」と話した先輩がLINEで送ってきた文章を一切の加工無しで貼り付けます。
報われない努力、いや努力は報われる。正直、どちらでもいい。努力は後悔しない為にするだけであって、妥協を許さない人間にのみ持つことを許されたプライドを兼ね備えた武器だ。努力をせずに何かに失敗して、怒られてもケロッとしてるやつはいる。手を抜くのが上手いヤツもいる。
プライドが高く、能力が伴わない私に残されたカードは「踏ん張る」しかなかった。それでも不安や見えない恐怖みたいなネガティブな(何か得体の知れない)ものに心がやられかける度、俺はきっとこの先輩と「不安は妄想だ。」ということを思い出すのだろう。
以下、転載。
毎分32300リットル(ドラム缶にして23缶分)湧き出る草津温泉ぐらい、わたしの心の源泉からは負の感情が湧き出てくる。もう観光地として成り立つんじゃないか、ってレベルで。
そんな毎日をかれこれ数ヶ月過ごしてきた。
そんなわたしにブッダは言った。
昨夜、布団の中で、唐突に、核心的に。「いや、不安はぜんぶ妄想だよ」
宗教の話では一切ない。この一言に心底救われたという話。
これまで自分の行動を抑制したり、暗い気持ちにしたり、自己肯定感を下げていた正体は紛れもなくこの「妄想」だ。
人から直接悪口を言われたわけでもなく、噂話を聞いたわけでもない、ただ自分が勝手に仮説立てて「きっとこうだからこうだろう」と決め込んで、しまいにはそれをリアルだと信じ込んで負のスパイラルに飲み込まれていく。
その都度、負の感情を重ね着していく。苦しくて脱ぎたいのに、気づけばまた1枚羽織ってる。そんな毎日にいい加減、心がぶっ壊れそうだった。
執着心を捨てたい。
モヤモヤを解き放ちたい。色んな記事を読んで、人に相談して、辿り着いた一つの答えが「文字を書くこと」
書いてる本人があまりの恥ずかしさに目を覆いたくなるほど自分の気持ちを包み隠さず書き殴っていく。おらおらおらおら、言葉のサンドバッグ。書いて書いて殴って殴って殴り疲れた頃にはわりとスッキリしている。
それでも耐え難い夜はやってくる。自分の存在を消してしまいたくなるような日は、空腹と寒い夜に特にやってくる。
今回はさすがにダメかもしれない。
カチコチに冷えたアジフライを齧りながらシャットダウンのボタンに手を伸ばす。しかし寸前のところでふと気付く。負の感情の根源は、
すべて「自信のなさ」なんじゃないの?もしわたしに自信があったなら
勝手にすればって心から思えたのかなもしわたしに自信があったなら
バカな選択したねって言えたのかななんてあるある共感ソングのAメロをすぐに作詞できたぐらい、この説は確信めいているように感じた。
人間関係、お金、仕事、将来に至るすべてにおいて、揺るぎない自信があれば、何が起きても動じない自分を手に入れられるのでないか。
自信こそ、この旅の最終章だったのか。いやぁよかったよかった、と気持ちを撫で下ろしたのも束の間、
「じゃあどうやって、その自信を手に入れるのよ」という嫁の一言ですぐに振り出しに戻る。振り出しに戻ってばかりの人生。
その通りだ。そもそもその自信をどうやっても手に入れられなくて、今こうしているというのに。
そして話は冒頭に戻る。ブッダの一言。
「不安はぜんぶ妄想だよ」
頭で考えることはぜんぶあなたの妄想。考えても無駄だよ。無駄っていうか、それ起こった?起こってないじゃん?起こってないことに疲弊してるの?
ブッダは続ける。
「ちなみに自信も妄想だよ」
自信って目に見えないじゃん。目に見えない妄想に対して、目に見えない自信で重ね着しようとするのはアホじゃん。
ブッダ超すげえ
そりゃ2000年続くコンテンツだ。
てか、2000年前にこの問題って解決してんだ。ブッダの言う通りわたしの毎日は妄想に溢れてる。
あの人はこんなことを考えている
この人にこんな風に思われている
これをして周りからこんな風に思すわれたら嫌だな起こりもしない出来事に、毎回心をすり減らしていた。
「妄想から抜ける」
妄想から抜けると、行動するしかなくなる、行動したことで、得られる「目と耳で得た実感」こそが全てであり真実である。
心がすーっとした夜だった。