×××× IN MY HEAD

筒井です。夢はお笑い芸人のままです。

Twitter

 

フォロー。

 

 

 

生粋のTwitterファンであり、何かを書くということがストレス発散と頭の整理になる僕にとってInstagramには適合できず、Twitterとブログの居心地の良さに甘んじている。SNS業界の端くれとはいえ、苦手だから上手く使えないのは仕方ない。

 

 

昔はもっと気軽にフォローをしていた。「あ!この人面白そう!」「いい音楽知ってそう。」そんな感じ。なんなら地下室TIMESで記事書いてちょっと天狗になってたあの頃、消し去りたい。

 

それが今じゃオススメに出てきた人を見ても「うーん…なんか申し訳ないな…」

 

 

 

これはまさに、リアルの出会いのハードルと比例している。大人になればなるほど「友達」のハードルが上がる。今更どんな人に出会っても、10年以上遊ぶ高校や大学の友達を超えることは容易ではないように、今いるメンバーで十分になっていく。

 

 

TikTokInstagramが出てもなかなか取り掛からず、Twitterという媒体に依存をし続け、更にTwitterの使い方までも排他的になり、狭いコミュニティで息をするなんて、典型的な「昔は良かった」おじさんの切符を持っているじゃないか。あの頃はもっと活発だった、あの頃はギスギスしていなかった、使いやすかった。

 

 

違う、きっと僕はもう置いていかれたのだ。アップデートが終了したサービスのように、ただただ代わり映えのない日常(現実)と日常(SNS)に満足している。最近フォローをされると無性に喜んでいる。これもかなりキツイおじさんだ。近づかないからこそ、来る者に喜んでしまうおじさん。

 

 

 

まだ28歳、もう29歳。

 

 

強引にアップデートを続けるおじさんこそ、面白い30代が待っていると思う。頑張れ筒井。ver28.6が来月やってくる。

 

 

 

消えた劣等感.2

 

俺みたいなのが。

 

 

 

 

少し前の日記からだいぶ時間が経ってしまった。ちょっと目を離しただけで24時間なんてあっという間に過ぎていく。その繰り返し。惜しいと思う暇もなく、一時の快楽を求めるかの如く、まさに言葉通り刹那的に毎日が終わる。

 

劣等感が消えたと記事のタイトルにしたが、実は消えていなかったのかもしれないと今日思った。矛盾は僕によくある。矛盾こそ人らしさであり、矛盾こそが僕であると思い込んでもいる。

 

何が僕をここまで突き動かすのか。そもそも動いているのか。よく自問自答する。間違ってないと思いたいから。そこで見つかるのは結局「俺みたいな奴が。」という劣等感を糧にしたブーストだ。

 

 

決して日向の人生を歩んできたわけでもなく、日向でも生きていけるような人に恵まれた人生だった。できれば休日も家にいたいし、大学時代はサークルにも馴染めず一瞬で諦めた。無理矢理陽キャラと付き合って偽っていたら、学校に行くのが嫌になった時期もある。結局、自己評価が低いが、低いなりの戦い方を覚えたに近い。

 

 

今日も数千万規模の契約が取れた。弊社ではまだまだ稀有なパターンだ。それを俺は「俺みたいなのが。」と思う。低いからこそやらなきゃいけない。プライドと実力の狭間で圧死しそうになりながら、負けないために抗うには「俺みたいなのが。」と思いながら結果を出すしかない。その先に驕りは無い。なぜなら今日なんて一瞬だから。また明日も「俺みたいなのが。」と思いながら、沸々と働く。劣等感は消えていない、劣等感を消すために働いているのだ。焼き殺しながら、燃やしながら、その熱によって生かされていた。

 

 

まあきっと、数ヶ月後には違うことを言っている。人間だからね。

 

 

働くモチベーションが何かとよく聞かれる。なんでそんな働いてるの。と嘲笑混じりに聞かれることもある。

 

もう仕事は、自我を保つためにある。誰も肯定してくれない。誰の肯定も素直に受け入れられない。だからやって確かめるしか無い。そんな男の末路だ。

 

 

消えた劣等感.1

久々にPCからブログを書く。某外資系企業に向けて提案資料を作らなければならないのに、何故かブログを開いてしまう。現代では「筆が進む」とは言わないのだろうか。「タイピングが進む。」

 

 

何歳になっても、自分に自信が無いと悩んでいる人にたくさん出会う。世の中が自信に溢れた人だらけになれば、僕もまたメッキが剥がれてしまうのだろうけれど、いつの間にか僕の虚勢は確固たる自信になった。劣等感みたいなものも無くなった。

 

どうしてこうなれたのだろうと、ふと思うタイミングがある。別に何かを成し遂げた訳ではなく、10年前から比べて特別秀でた能力が身についたわけでもない。ただ、誰かと比較することもなく、毎日それなりに幸せだろうというポジティブ脳に切り替わった。8年前に沈んだブログを書いていた僕は、今これを見て何を思うのだろうか。

 

要因を探そう。

 

そういえば元々、何かで1番になるような人生ではなかった。何度もここで書いた通り、僕はこの先も小学生時代をフルで虐められ続けた劣等感と憎悪のようなものに塗れているし、勉強も学年120人中で36番くらいの絶妙な順位だった。50m走も7.2秒くらいで、僕よりも速い人はたくさんいた。高校に入っても、大学に入っても、1番ではなく6番くらいの人生だった。オシャレにもなりきれず、楽器も上手くなく、田舎の劣等感を抱きながら、毎日渋谷の大学に通っていた。

 

長くなりそうだから、続きはまた次に。

懐古厨

 

おじさんになった。

 

 

思えば、来年にはもう僕も30歳らしい。30歳で「僕」とか言っているのにもいよいよ本物の痛さが生じ始めていて「私」と呼ぶべきであろう。そして来年の12月なんて遥か先のようで、例年の如くあっという間だ。

 

 

僕(私)ら90〜95年世代はきっと青春時代にITの変革期を迎え、いつの間にかゲームボーイはカラーになり、ゲームのコントローラーは無線になり、パカパカするケータイはスライドへ、MDプレイヤーはMP3プレイヤーになった。そして淘汰された。常に「新しいモノ」を持つことが一つのステータスであったし、ケータイをケースに入れる時代が来るなんて予想もしていなかった。あの頃はケースなんかじゃなく、機種を選んでいた。1年毎に機能がアップデートされて、古いモノは遅れているような、時代に追いついていかなきゃいけない勢いが凄かった。そんな印象がある。そして30歳を目前にした僕らは今「懐かしい」に打たれ弱くなった。

 

目まぐるしく変わったファッションや音楽のトレンド、mp3プレイヤーだけではない。ちょっとしたキャラクターやエンタメも含めて、僕らは貪るように消費をしてきた。そのモノの良さも分からずに。その反動がそろそろ来るのではないか?という気がしている。つまみ食いをしてきた結果、何も物足りない空腹モンスターが生まれたのだ。

 

きっとこれから、僕ら世代を狙った数多くの映画やドラマ、ガジェットなんかも出てくる。なんのアレもないけれど、そんな気がする。今更になってiPod nanoが復刻すれば僕は喜んで買ってしまうかもしれないし、当時のバンドメンバーへの誕プレにしてしまうかもしれない。要不要のアイテムではなく、ある種改めて当時を懐かしむアイテム、消えかけた個性を象徴する品物としての物質を感じるために。そしてそんな投稿を見て、まさにそうだなと思った。

 

古いからダサいなんて考えはこの進化しすぎた世の中で、どんどん無くなってくるのかもしれない。古くてもいい、自分はこれが好き。なんて生き方はなんだか悪い意味でも「今っぽい」気がする。戻れるのなら、2009年頃に戻りたい。

 

そしてiPod classicを、また使いたい。

Raconteurs

 

遠い昔、それはもう昔々。まだiPhone3GSや、iPodを使っている人が世の中にはたくさんいた。ジョブズも生きていた。そんなスマートフォン黎明期に某サイトでラカンターズを好きな人とやりとりをするようになった。

 

お互い連絡先も何も聞かず、数ヶ月に1回連絡をする。数年空くこともある。特に連絡内容に中身はそれほどもなく、元気でやっているかという旧友のような連絡。何かを境に連絡は無くなり、数年が経った気がする。

 

 

たまたま朝、当時からは進化したiPhoneApple Musicからラカンターズが流れた。そういえば何しているんだろうと思うも、何も知らない。連絡先どころか、名前もあまり覚えていない。なんと失礼なことか。元気でやっているだろうか。当時20歳そこらだったような俺らも28〜29歳になり、人生が変わるような何かが起きてはいないだろうか。こんなブログを見ているはずもなく、こうして友人になるべく人をタイミングで失うんだなと思わされた朝でした。

 

 

2019のラカンターズのライブ、行けばよかったと今も後悔している話をしたい。

忘憂

 

 

「やばいかもしれない。」

 

何万回と思ってきたけれど、相変わらず何かあるとハラハラしてしまう。嬉しいことや楽しいことは慣れてくるのに、不思議だ。

 

 

今日は初めてちゃんと「仕事辞めたいな。」と考えた。

 

考えたというか、憂いた。そう、これは憂い。今年も僕には花粉症は来なかったけれど早すぎる五月病が肩を掠めてきた。そのまま覆いかぶさってきた。久々にその空気に包まれすぎて、隣に座る中途の後輩から「筒井さんが忙しいと、チームの空気が全然違いますね。」と言われてしまった。この子は優しいから余計なことは何も言わなかったけれど、きっと「話しかけにくいから、ピリピリすんなよ。」って言いたかったんだと思う。心から申し訳ない。僕のチームだけはそんな空気になりたくない。そういう人を新卒の頃から、前職の頃から、たくさん見てきた。

 

 

「今、俺機嫌悪いから構うなよ?」

 

みたいなダサいオーラ出してる人。それよりずっと「OKいつでも話してこいよブラザー✌︎」って方がきっと仕事は捗る、僕の仕事は進まなくても、周りがそれで溌剌と働けるのであればそれが僕の仕事でもある。

 

そんな後輩の話を聞いて、明日からもヘラヘラして、飄々といつも通りでいなきゃいけないと、反省をした。帰り道も楽しい話ができた。帰ってきて一缶だけハイボールを飲んだ。もう今日起きた大事件のことは忘れた。飲まなくても、忘れていたかもしれない。

 

 

自分の機嫌なんて、誰も直してくれない。誰も興味ない。ご機嫌な時ほど誰も気にせず、胸糞悪い時だけ周りはマイナスな評価をする。そんなもんなのだ。もっともっと、もっと、かっこいい大人になっていこう。

 

 

中国語で「忘憂」は「酒」を意味する。

 

なんて粋な意訳だろう。

僕も粋な男でいれるよう、斜めなりに明日も頑張ります。

もう昨日のことは忘れた。

8年目

 

気づけばブログが8年目を迎えた。

 

 

 

身の毛もよだつような記事がたくさんある。紛れもなくここには20歳からの筒井がいるし、何なら筒井しかいない。

 

 

読者機能なんて言うアテにならない誰が見てるかもわからないシステムが最高だ。一方的にメールマガジンを配信しているような感覚に陥る。必要な時に必要な人が見てくれればそれでいい。

 

 

どれだけ卑屈になってしまっても、生活を諦めることはない。心臓は動き続けるし、酸素を送り続ける。そうであるならば、今日も少しだけ楽しくいよう。気持ち悪いことを書くけれど、僕もあなたも多分そんなに毎日楽しく幸せに過ごせるタイプではない。鬱屈とした毎日に嫌気が刺したり、ふと自分が本当に孤独なんじゃないかと、自分だけが特殊なのでは?と嫌悪感に苛まれることもあるだろう。違う。皆それらを少なからず抱きながらも生活を諦められないのだ。同じような人がここにいる。生きるしかないのであれば、粉々になるような日があっても、それでも笑っていたい。

 

 

いい金曜日にしよう、いい土日に向けて。

 

浮浪者みたいになった髪の毛を明日は切る。