×××× IN MY HEAD

筒井です。夢はお笑い芸人のままです。

本を読む意味

 

「それ、やる意味ある?」

 

 

言われたことはないですが、世の中にはこんな言葉を投げかける人がどこかにいて、誰かを傷つけていることでしょう。そして僕らも高校で数学Bを習ったり、漢文を読んだり、美術でゴッホの「ひまわり」という作品を覚えさせられたりした時に心の中で「これ、覚える意味ある?」と思っただろう。僕らに子供が産まれて、小学校に入った息子(娘)に「算数って、なんで勉強するの?」と聞かれた時に「義務教育だから。」なんて言うような大人になるのはなんだか恥ずかしい。最近、意味を探すことにハマっている。これがなるほど面白い。

 

正直、まだ僕は数学の意味や美術の意味はハッキリとわからないけれど、読書の意味を見出してきた。忘れないように書く。

 

 

人並みに本を読む人間だったけれど、大学卒業後から年に十冊も読めば御の字な文学少年とは言えないほどの大人(少年)になってしまった。読書をする人は読書好きとして惹かれ合い、個人的には「読書」が謂わばファッションのようなものだとしても別に僕はそれでもいいと思っている。音楽も同様だ。自分の聴いている音楽や、もっと大きく定義すれば「趣味。」これらは自分の生活を豊かにするためのものだったりする人が大半で、そして僕らは生産者ではなく消費者側が大半だろう。「○○ってバンドが好き。」「そんな自分がちょっと好き」これをステータスとして持っているような人は多くいると思う。言われるとなんだか「そんなことないよ。」と言いたくなるが、別に僕はそれでいい。僕にとってフジファブリックFoZZtoneは人生を豊かにするバンドだし、それが僕のステータスの一部になっている。言い換えれば、ファッションだ。

 

読書も同様だということを書いた。これは別に「総意」ではなく、僕の中での話だから別に反対派をどうこう言いたい話ではない。本を読む人と読まない人に大きく差があるかと言われると、僕もよくわからないし、読んでるからと言って「賢い」「知的」「物静か」な『イメージ』がつくだけであって、読書が大好きな大量殺人犯だって1人くらいいるだろうから、一概にどうだってことでもない。ではなぜ本を読むのか。その意味を考える。なんだか、論文みたいだな。続ける。

 

 

すごく笑われそうな話をする。

 

 

まず、本を書ける人は少なくとも僕よりは賢い。僕は本が好きだけれど、一節も書いたことがない。大人になるに連れて、大人から教わる事はどんどん少なくなっていく。例えば僕は広告業界で働くサラリーマンだけれど、僕が教わるのは基本社内の上司くらいになる。色んな人から「社会」のことや、「お金」のことや、「恋愛」のことを教わることはなく、学ぼうとしなければ「経験」からでしか判断ができなくなる。これはとっても僕としては「恐怖」だ。僕が考える「社会的な正解」がもしかしたら世の中の賢い人たちからしたら「圧倒的な絶対悪」の可能性も浮上してくる。もっとわかりやすく言うと、50歳のおじさんが書いた本はきっと50年の集大成みたいな内容だったりして、50歳の人が今何を伝えたいのかが書いてある。そんなの会社にいて、知る機会などない。それがブックオフAmazonなら高くても¥1,500くらいで手に入る。50歳のおじさんが死ぬ気で何かを伝えようとしたその数百ページが、ブックオフならワンコインで手に入る。別に50歳の作者が誰かなんてどうでもいいんだけれど、誰かの生き様をそこに見るってのは、歴史学と少し似ている。僕は好きだ。

 

 

 

もう少し深掘りしよう。ではなぜ「芥川龍之介」や「坂口安吾」(日本文学は疎いですが、どちらも好きです)のような古い本を学校で読んだり、今も尚小説で有難く流通しているのか。そもそも先程の話では「ホリエモン」の書いた本ならわかる。確かにあの「ホリエモン」が血と汗を流して書いた最強の一冊であれば、読む価値はあるかもしれない。(ホリエモンの本読んだことないけれど)100年も前の大正文学なんて、一体何の役に立つのだろうか。これを筒井なりに考えている。大体今のところ答えは二つ。

 

 

まず、頭の悪い僕でも感じるのは読み終えたあとの「なんだか成長したような気がする感」だ。めちゃくちゃ笑われるような感想だけれど、純文学と呼ばれるようなものだとかは、圧倒的にこれを感じる。「あれ?なんか…頭よくなったかも…」こう思う。何か心が昂るような、そんな気持ちになる。最近見つけた大事な答えのもうひとつは、ここから更に深掘りすると出てくる。

 

 

 何を伝えたかったのか、なぜこれを書いたのか、調べたくなる。一体どういう意味だったの?という話が確かに幾つかある。例えば芥川の「羅生門」みたいな話にしても、なんとなくわかるけれどそれって結局?という気持ちがある。そこを深掘りするのが面白い。そして結果、なぜその話が評価されているかというコトが明確になってくる。人としての醜さみたいなものが、100年くらい経つのにそんなに変わらないこと。正義ってなんだろう。となる。

 

 

二つ目の答えとしては「本が考えるきっかけをくれる」という答えに至った。

 

 

 酔っ払ってもないのに偉そうなことを書くけれど、人との距離感とか空気とか、考え方とかそういうのを察する力は恐らく読書がやや起因している。明らかに必要というわけではなく、人生に於いての課金アイテム程度として影響があると見ている。「なぜ!?」「え!?」みたいな文章を読んでもわからない裏側や、当事者でもないのに想像ができそうなシチュエーションに無理矢理入り込むことで、その辺りの(言葉にできない)感覚がやや研ぎ澄まされるような気はしている。

 

 hey!siri!で頼めばなんでも教えてくれる時代に「考える」ことを失ってきている。調べればなんでもでてくる。ただ「自分がどう思うか。」ということだけは出てこない。羅生門を読んでも、ホリエモンの本を読んでAmazonのレビューには賛否両論ある。大事なのはレビューの賛否ではなく、自分がどう考えるかっていう機会(チャンス)を貰えるってのが、読書の意義だなと思う。

 

とりあえず、本読もうぜ。って話。

 

そしていつか僕は自費で、30年間を締め括るような壮大な自伝を僕のために書きたい。なんだか素敵じゃん。

 

 

明日も、頑張りましょう。